街を襲う津波。車も船も流され、次々と建物にぶつかり、そして無理やり建物ごと街の奥へと侵入していく津波・海…。

 「とんでもないことが起きている」。やっと、僕は状況を理解し始めた。

 41階から眺める第一京浜は、車と人で大渋滞。JR線も地下鉄もすべて止まっていて、再開のメドは全く立ってない。義理の兄から「Twitter」でメッセージが届いた。自宅にいる僕の家族の無事を確認したらしい。

 「とりあえず、良かった」

 僕はほっと胸を撫で下ろし、その日は会社に泊まることを選択した。

 会社に残るメンバーには、乾パンと500mlのペットボトルに入った水が2本配られた。僕は、ワンセグの映像に移った光景が未だ実感できずにいた。頭の中で、中学生の時にテレビで見た湾岸戦争のライブ中継や、米国同時多発テロ事件の映像が繰り返し再生される状況が続いていた。

 翌日、動き出した電車で自宅に戻ると、妻は思ったより動揺していて、当時4歳だった愛娘は興奮気味だった。携帯電話で地震速報の音が鳴るたびにびっくりして走り出し、繰り返し放映される公共広告機構のテレビCMに踊り出す。当日、僕と連絡がつかなかったことに加え、テレビから飛び込んでくるリアリティのない映像に妻は浮足立っていた。その内に、計画停電の話が出て、自宅がある地区もその対象になった。

なぜか、後ろめたい気分に

 会社は、相変わらず自社の被災対応に追われていた。グローバルに展開しているグループ企業の全社員の安否確認と、事業拠点の状況把握、被災地域で崩壊した社会インフラへの緊急対応、被災した顧客へのサポート、世界中の顧客への供給網の確保、各国からの問い合わせへの対応…。

 ただ、すべては会社を主語とする対応だった。そこに漠然とした違和感を感じてはいた。社内ですぐに回ってきた義援金集めでは、1回分の飲み代程度の金額を支援した。なぜか、後ろめたい気分で一杯だった。でも、家族すら安心させられない僕にできることは、たいしたことではない。そう思った。計画停電の当日は、午後に休暇を取り、停電の中、娘が不安にならないよう、家の中を海賊船に見立てた“宝探しゲーム”を家族3人で楽しんだ。

 震災の直後から大きな情報源は、Twitterだった。僕のタイムライン上では、直後から支援に動き始める人々が少なくなかった。著名人や社会起業家だけではなく、一般の人々も多くの“つぶやき”をリツイートしながら、情報流通の担い手として積極的に活動していた。

 その中で、ある人物のつぶやきが気になっていた。