「例えば、iPhoneの音声認識サービス『Siri』は、スマートフォンという四角い箱に話し掛けることになります。それは、やはり不自然だと思うんです。より人間に話し掛けているように感じられれば、もっと応用が広がる。そう考えれば、ロボットは大きい必要はない。小さくても、人とのコミュニケーションをうまくデザインすることで、人間性につながる部分を引き出すことができる」と。

 私は、前職の時代から長年インターネットの世界に関係してきた。インターネットの父と言われるVinton Cerf氏や、このコラムの前シリーズで紹介した慶応義塾大学の村井純教授の発想は、高橋氏の考え方によく似ている(前シリーズの「我々の日常を徹底的に変えた行動力」「夢中になって、何が悪い」は、それぞれこちらこちら)。Cerf氏にせよ、村井氏にせよ、恐らく、インターネットがどう使われるか、それでどうやってビジネスができるかを、当初から考えながら技術開発を進めてきたわけではないだろう。

 ひょっとすると高橋氏が考える人間型ロボットの将来像も、インターネットが人類の社会を大きく変えたと同じように、社会に大きく影響を与えるものになるのではないか。そう感じた。ロボットと総称するものが人類にどう関係するかという原点に戻って、何か新しい価値を定義することができるかどうかに懸かっているのだろう。もちろん、その価値は一義的ではないはずだ。

既存市場の代替の先に新産業はない

高橋氏が開発した2足歩行ロボット「ROPID(ロピッド)」。走る、歩く、ジャンプする、起き上がるなどの動作をこなす。体高38cm、質量は1.6kg、30自由度。
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 多くの人々が人間型ロボットと対峙することによって、新しい発見が必ず生まれる。この信念が、高橋氏のロボット開発の根底にある。高橋氏は「日本の企業のロボット開発は正しい方向にはない。ロボットが既存の製品や市場を代替しても意味がないからです」と指摘する。例えば、車いすロボットを開発しても、車いす自体の市場規模がそれほど大きくない。加えて、市場を代替するためには、価格も現在の製品にとらわれてしまう。

 そこを乗り越えれば、「日本にはロボットの新市場を生み出せる創造性と下地が十分にある」というのが、高橋氏の考えだ。「バブルを経験したことで、日本人は世界に通じる文化的なセンスを養うことができた」と彼は見ている。日本の文化やデザイン、製品は既に世界に大きな影響を与えてきたし、与えているのだというわけだ。

 だから、日本発の新しいものをもっと世界に発信していくべきであり、ロボットがその一つだと高橋氏は説く。「スーパーカーならばイタリア、ワインはフランスというように、ロボットならば日本」なのだ。精密機械の先端技術と、アニメなどのコンテンツという二つの流れを抱え、クールなロボットを世界に発信できる国は日本なのだと。

 メカ好きの高橋氏は、スポーツカーにも凝っている。どちらかといえば、運転よりもメカとしてのスポーツカーそのものに興味を持っているようだ。日本の社会は、「高級スポーツカーを駆るベンチャー企業の経営者や大学の教員」というと、なぜか眉をひそめる傾向にある。だが、私はそういう先生がもっと増えれば、日本の大学も変わるだろうと思う。それがいいことかどうかというような議論は、すべきではない。大学の教員が経済的にも成功している例は世界的には珍しくないのだ。素晴らしい研究がビジネスとして成功することは、本来は研究に対する重要な評価指標の一つであっていいはずである。

 自分自身の生活スタイルや仕事のやり方にも「センス」を追求する。それが決して嫌味には見えない。高橋氏には、それが当たり前の日々の暮らし方ということなのだろうと想像する。日本には稀なタイプかもしれないが、まさに「華麗なる技術者」の一つの象徴に見えた。