日中経済全面発展の時期

 私の2度目の駐在は日中経済関係が全面的に発展した時期にであった。日本企業の対中投資が拡大し、かつ日本側100%出資企業が主流になり、投資が貿易を牽引する段階に入っていた。中国の計画経済は過去のものになり、市場経済が定着し、中国側の貿易・投資の担い手も次第に民営企業や外資系企業が主役になりつつあった。国有企業は「抓大放小」(大企業は強化し、中小企業は民営化する)の方針の下に企業改革が進められた。

鄧小平氏の死去

 1997年2月19日、改革開放の総設計師鄧小平氏が死去した。毛沢東主席の死去の直後に北京にいた経験のある私にとって、市民の表情の明るさに驚いた。改革開放という基本路線が確定していることと、実際に経済が年毎に発展していることが市民に安心感を与えていたからだと思う。

 知り合いの若い女性が「職場で追悼式が行われるが、涙が出そうもない。他の同僚が泣き出したら目薬を指して泣いた振りをしようと思い、目薬を持って参加した。しかし、実際には誰も泣かなかった」と話してくれた。

新疆、内蒙古への視察

 この時期、東部沿海地域はすでに大きく発展し、中国政府の政策も中西部地区の発展へ重点を移しつつあった。当協会は甘粛省、新疆ウイグル自治区や内モンゴル自治区からの訪日団の受け入れや、同地域への投資環境視察団の派遣を行った。私は北京事務所長として事前の打ち合わせや視察団随行のため数度現地を訪れた。少数民族自治区の実際を見聞する機会に恵まれた。

 私は1998年の春節に、こうした業務を通じて知り合った友人(内モンゴル大学日本語学科の学生、漢族)の実家(内モンゴル自治区赤峰市牛家営子村の農家)を訪問し、宿泊した。春節前後の長距離交通の混雑は日本の年末年始以上だとは耳にしていたが、北京から赤峰まで聞きしに勝る超満員列車に乗って行った。偶然同じコンパートメントに座った旅行客は漢民族、モンゴル族、満族それに私という組み合わせで、多民族国家の中国ならではの体験をした。

 現在大きな社会問題になっている民族摩擦が当時はまだあまり表面化していなかった。