20年ぶり2度目の駐在

 1996年1月から1998年5月まで再び北京に駐在した。最初の駐在は1977年で、毛沢東死去・文化大革命終結の翌年であったので、それからほぼ20年ぶりである。しかも今度の駐在期間に鄧小平の死去と香港返還があった。偶然にも毛沢東時代の最後と鄧小平時代の最後を北京で生活する巡り合わせとなった。

 改革開放から十数年たった96年の北京は私にとってまるで知らない町になっていた。かつてメインストリートにも見られた馬車が全く消えており、自転車の大群は依然として存在していたものの、自動車が急増していた。高層ビルが林立し、業務関係先である各政府機関や公司、企業の住所も大半が移転していた。北京空港は新ターミナルになり、鉄道駅も巨大で壮麗な北京西駅が新しく使用開始されていた。

地図を片手に町を歩く

 北京における日本企業の駐在事務所や日系企業が年々増大しており、当時北京に長期滞在する日本人は家族も含めて6000人規模になっていた。中国日本人商工会議所(現在の中国日本商会)や日本人会が活発に活動し、日本人学校も運営されていた。かつては1人駐在であった当協会の北京事務所も所長プラス中国人職員3人の4人体制になっていた。

 まず北京を知らなければ仕事にならない。赴任後の半年間、私は毎週末に「北京生活地図」を片手に、バスと地下鉄を利用して徹底的に町を歩き回った。大規模な野菜卸売市場や水産物市場にも行ったし、イスラム教徒の居住区「牛街」の存在も知った。町歩きのおかげで北京がようやく身近になった。

弁護士の必要性

 北京は外観が変化しただけでなく、経済システムも計画経済から市場経済に大転換していた。トラブルの解決方法もかつてのように何でも政府に訴えるのではなく、弁護士の協力や裁判による決着を求めるケースが増えていた。私は信頼できる弁護士と知り合いになっておく必要性を痛感し、中国国際貿易促進委員会の知人を通じて王俊峰弁護士を紹介してもらった。中国の広告主が「国際貿易」紙に掲載した広告代金の回収や北京事務所の中国人職員の家庭騒動などで王氏の事務所にお世話になった。また、それまで日本企業との結びつきが少なかった王氏を何人かの日本企業の駐在代表に紹介もした。

 王弁護士が立ち上げた金杜律師事務所はその後急速に発展して北京最大の法律事務所となり、現在では上海など国内主要都市および東京、香港、ニューヨーク、シリコンバレーにも事務所を開いている。