矢嶋教授は「マメゾウムシのメスが発するフェロモン分子についても研究をしている。

 「このフェロモンはオスにメスがいると思わせることができるため、オスを一カ所に集めることができます。例えば冷凍保存設備のない国での保管庫に、オスの害虫を穀物のある場所とは違うところに集められるので、害虫薬を使わずに安価な防虫効果が期待できたり、オスとメスが出会うことを邪魔したりする効果があるのです」。

 矢嶋教授は高価な分析器を揃えて論理的に薬を作り出すことではなく、自然界に存在する未知の植物や昆虫から人間の病気に効く要素を発見する方法を考えている。人間の歴史的な知恵や現存する生物からカギを発見しようという実学の手法だ。

 「南米や東南アジアのジャングルに分け入って新種の動植物を採取して分析することで、これまでになかった薬を発見できる可能性があります。最近は各国の認可を契約ベースで行い、新種を探索する企業も多くあります」と言いながら、博士は「カムカムドリンク」なる缶ジュースを振る舞ってくれた。

 「これは農大のOBが南米に行って栽培しているビタミンがレモンの40倍というカムカムをジュースにしたものです。農大の先生方が開発し、販売しているんです。その国では麻薬の密輸販売が大きな収入源となっているので、その代わりになればと行動を起こしています。これはバイオ科学者のロマンにもつながるものです」と誇らしげに言う。

 バイオが冒険ロマンだと聞き嬉しくなってしまったので、「小生はかつてブラックヒルズ(USA)に恐竜の採掘にいったおりに、地中から種のようなものを掘り出しました。それがパカッと割れると、中から黄色い胞子のようなものが空中に飛んでいったのを経験したことがあります。そのかけらを持ち帰ってきたのですが、一度分析にかけてもらえませんか」と頼むと、「種の外側はすでに化石になっていてDNAはないでしょうね。でも種というのはあんなに乾燥しているところでも生命を維持できます。その原因は、まだすべては解明されていないんです」とのことだった。

 「人間は笑うと免疫が上がる、アレは笑う事で遺伝子の働き方が変化しているのです。それを応用して以前に資生堂が匂いであたかも痩せられる、といったコンセプトの商品を発売しました。人間はある種の匂いを嗅ぐと、体内にアドレナリンが出て脂肪を燃焼させやすくなるそうです。他にも一見我々人類には有害であっても、バイオによってプラスに変える事例も出てきました。例えばオニヒトデから魚のストレスを軽減させ、魚のオス化をくいとめる手法も養殖業で試みられています。メスの商品価値の方が高いからなのですがね。このように遺伝子レベルで生命を語る事が可能になったからこそできるようになったと言えるんですが、まだまだ始まったばかりです。これからいろいろなことが解明され、人間の病気や怪我に効く薬が次々に発見されてゆくと思います」。

矢嶋教授の話に引き込まれる。二人の間にある赤い缶が「カムカムジュース」
矢嶋教授の話に引き込まれる。二人の間にある赤い缶が「カムカムジュース」

 近い将来、具体的に我々の健康に役立つバイオとはどんなことか、と質問した。

 「テーラーメイド医療といって、個々人への適切な診断・治療への応用が期待されます。個々人によって異なる体内の状況を把握、その状態によりフィットする薬(カギ)を迅速に判断していきます。例えば、あなたの遺伝子の傾向からは、このような病気になりやすいといった傾向なども、伝えることが可能です」。

 一時期バイオは世界中の注目を集めた割に、最近では未解決な領域であり、開発に時間とコストがかかるため企業があまり関心を示さなくなっている。バイオの可能性も研究者も多いわけだが、今後どのような産業への関わりが考えられるかを聞いてみた。

 「企業の危機感がターニングポイントになると思います。石油資源の枯渇とか原子力エネルギーの変換といった大きな時代の変換が契機となって、企業が本気でバイオ産業に着手する時代が来るのではないでしょうか」。

 温故知新、人類が多大な犠牲を払いながら発見してきた薬草などが、分子や遺伝子レベルで生命や健康を守ろうとするバイオ産業は、コストパフォーマンスの悪さを乗り越えながら産業として日の目を見る可能性はある。今回の取材でうけた印象は、“ある日突然ある科学者が画期的な薬を発見する事であっという間に世界を変えてしまうバタフライ効果の火種をバイオ科学はもっている”ということだった。