天安門事件の衝撃

 1989年から1991年にかけて世界は大きく動いた。1989年6月4日、北京の天安門広場で長期間座り込み、自由と民主を要求していた学生、市民が人民解放軍の部隊によって排除され、多くの死傷者が出た。中国政府は死者300人、死傷者合わせて7200人と発表した。当協会の事務所がある建国門外の国際大厦も銃撃により窓ガラスが割れた。日本企業の常駐事務所の人員はほとんど北京から退去し、各社休業状態に陥った。事件後、趙紫陽総書記は解任され、江沢民氏が総書記に就任した。西側各国はすぐさま中国政府を非難し、高官交流停止等の制裁措置を採った。

 当協会の桜内会長は事態を憂慮する談話を発表し、機関紙「国際貿易」は「無差別発砲に憤り、日中経済へも深刻な影響」と題する時評を書き、事件の早期解決と中国の現代化・対外開放の道が継続されることを切望した。日本の対中輸出は89年、90年と連続して落ち込んだ。

 一方、ヨーロッパでは89年11月10日にベルリンの壁が崩壊し、さらに91年12月25日ソ連邦が崩壊、東西冷戦体制が終結した。日本では80年代後半から顕在化していたバブル経済が91年頃急速にはじけ、以後「失われた10年」といわれる経済の長期低迷時代に陥った。

日中経済関係が回復拡大へ

 天安門事件後冷え込んだ日中関係を回復させる動きは日本側で次第に強くなった。当協会は89年11月に桜内会長を団長とする大型代表団を北京に派遣した。引退後の鄧小平氏、江沢民総書記、李鵬総理等の指導者と会見し、経済関係回復について意見交換した。91年1月には当協会創立35周年祝賀会に鄒家華国務委員を招請し、事件後の高官交流再開の口火を切った。

 1992年2月鄧小平氏が「南巡講和」を行い、同年10月の第14回党大会で江沢民総書記は「社会主義市場経済体制の確立が改革の目標であり、対外開放をいっそう拡大する」と報告した。中国の改革開放は後戻りしないことが明確になり、日本企業の対中投資は再び活発となり、日中貿易も拡大していった。この年、有史以来初の天皇訪中が実現した。また中国は韓国との国交を樹立した。

家内の中国人観を変えたもの

 私は1973年以来、毎年元旦に日本で年越しをする中国の各駐日事務所の代表を自宅に招き、日本の正月気分を味わってもらってきた。91年から92年にかけて「国際貿易」紙のコラム「在日中国人記者の目」に登場してもらった経済日報東京支局の姜波支局長夫妻を招いたことがある。夫人の王崑さんはドイツ語が堪能で、化学工業部外事局勤務時代に東西ドイツ両方を訪問したことがある人。食事が終わると、家内と一緒になって皿洗いをしてくれた。「今度は私たちの家に来て欲しい」と繰り返し招待の電話をくれた。3月下旬に目黒にある支局兼住居のマンションに訪ねていくと、王さんは前日に横浜中華街にまで行って調達してきた食材を使って、出身地である西安の家庭料理でご馳走してくれた。皿洗いの手伝いと、心のこもった家庭料理の招待は、それまで中国に行ったこともなく、どちらかというと中国嫌いであった家内の中国人観を変えた。