法政大教員として、アナログ・デジタル回路技術などの研究を開始

 2001年は安田社長にとっては節目の年になった。母校である法政大大学院理工学研究科の半導体研究室を担当していた教授が他の機関に移籍し、その分野の教育と研究を担う教員公募が生じた。非常勤講師などを務めた経緯から、母校の教員公募に応募するように薦められ、その対応に悩んだ。あれこれ悩んだ末に、教員公募への応募に踏み切り、無事採用された。この結果、法政大大学院で教員として、半導体のアナログ・デジタル回路技術などの研究を始めた。

 一方、岡村取締役は1986年に東芝に入社し、当時の東芝半導体事業本部のマイクロエレクトロニクス研究所(現在の東芝セミコンダクター&ストレージ社のマイクロエレクトロニクスセンターに相当)に勤務した。東芝では、米国IBMとの半導体記憶素子SDRAMの共同開発など、多彩な技術開発に従事した。

 岡村氏は、あるLSI系学会のシンポジウムで、ザインエレクトロニクスの飯塚社長と知り合いになった。飯塚社長が東芝の半導体事業本部の幹部だった経歴から、当然、顔見知りだった。岡村氏は、米国カリフォルニア州シリコンバレーの半導体系ベンチャー企業の仕事の進め方に興味を持っていた上に、学生時代に東京都千代田区の秋葉原周辺にあった「8ビットマイコンの“システムハウス”でアルバイトをし、ハードウエアとソフトウエアを組み合わせた独自技術の開発をする小企業の仕事の雰囲気に慣れていた」という。このため、ザインエレクトロニクスの飯塚社長からの「当社に来ないか」というお誘いに自然に反応した。

 1999年10月にザインエレクトロニクスに転職した岡村氏は、仕事の一環として半導体などの設計を支援するソフトウエアであるEDA(Electronic Design Automation)を事業としている米国の技術系ベンチャー企業との仕事ぶりなどを深く知ることになった。結果的に、ベンチャー企業の事業の仕方を学ぶ機会となった。

特許を出願する受け皿として、まずベンチャー企業を設立

 法政大の安田准教授の「デジタル直接駆動型スピーカの解析と高性能化」の研究成果に関心を持った岡村氏は、その事業化の可能性を追究し始めた。安田准教授は生え抜きの教員ではなく、「東芝やTIなどでの企業勤務の経験があり、研究成果を事業化する際の必要条件を知っていることが、一緒に事業化を考える動機になった」と岡村取締役は語る。

 まず、企業勤務経験を持つ大学の准教授である安田社長と、ザインエレクトロニクスという成長著しいベンチャー企業の仕事の進め方を知っている岡村取締役の2人が出会った。さらに、岡村取締役が東芝時代に特許などの知的財産の仕事で親しかったT氏(弁護士・弁理士)にデジタルスピーカーの研究成果を相談した。この結果、知的財産に詳しい専門家も仲間に加わった。

 岡村取締役は「研究環境を持つ大学教員、ベンチャー企業の事業に詳しい者、知的財産に詳しい者の3人の出合いが、運命的な出合いと感じたことから、3人は2006年2月にTrigence社を設立した」と経緯を説明する。創業した理由は、デジタルスピーカーの基本特許を出願する、受け皿となる“特許権者”としての会社組織が必要だったためだ。2007年5月に、発明の名称「アナログデジタル変換装置」「デジタルスピーカーシステム」などの3件の特許を国内に出願した。発明人は安田社長と岡村取締役で、特許権者はTrigence社である。

 Trigence社は3人がそれぞれ100万円ずつを工面して有限会社として設立した。設立当初は、創業者(ファウンダー)の一人であるT氏の弁護士・弁理士事務所に間借りした。活動資金や特許の出願費用などをまかなうために、2006年10月には増資し、株式会社に変更した。この時の増資分も3人の創業者が負担した。創業した翌年の2007年2月には岡村取締役がザインエレクトロニクスを退社し、翌月の3月にTrigence社に参加した。その内に、法政大の一部にスペースを間借りすることができ、会社としての事業活動環境は整い始めた。