もちろん、開発課題はそれだけではなかった。ハートウエアとソフトウエアの両面で新規開発する項目は多かった。このため、エアボードを商品化するまでは残業の日々が長く続いたが、開発チーム全体が世の中にない新しい商品を作るという高いモチベーションを持って望んだことで、いくつかの壁を乗り切れたと思う。最終的に、当初計画から約1週間遅れとなる2000年12月1日に、エアボードの発売にこぎ着けたのだった。また、いよいよ発売に向けて業務が架橋になる2000年4月には、従業員の家族(独身者にはご両親、既婚者には奥様・ご主人)、工場からの出向者、協力会社の社員にはその工場のトップ、協力会社の社長に「現在ソニーにとってとても重要な業務に携って頂いており、これから厳しい残業が多くなりますが、健康には注意致しますので、ご家族のご協力を宜しくお願い致します。」と言った内容の手紙を出していた。

 開発チーム全員の士気を高めた一つが、発売に先駆けること約2カ月前となる2000年9月28日に、銀座ソニービルで開催した「パーソナルITテレビ エアボード」の発表会だ。会場には80席を設けていたが、報道陣が押し寄せたため発表会を4回実施する羽目になった。テレビや新聞、雑誌など数多くのメディアで報道していただいた他、直後に開催された第1回の「CEATEC JAPAN」では凄まじいほど多数の質問を技術者にいただいたことは、本当にうれしかった記憶だ。やっとの思いで発売に漕ぎ着けたときは、「ご家族にお陰さまで新商品を発売することが出来ました。」と言う報告の手紙を出したが、そのときには多くのメディアがニュースとして取り上げてくれたために、家族と一緒に喜んでくれたものである。

技術者自身の感動が必要

 ここで少し、開発の過程を紹介しておこう。エアボードは、無線LAN送受信LSIの開発と平行する形で、ハードウエアのブレッドボードを用いた開発を進めていた。ディスプレイ部とベースステーション部は共に1m2に達するほど、巨大な寸法だった。2000年5月の段階では、まだ無線LAN送受信LSIが完成してなかったため、ソフトウエアの開発もこのブレッドボードで実施していた。もちろん、有線接続での検討だ。

 無線LAN送受信LSIが完成したのは2000年6月のこと。発売までは半年しかない状況だった。皆が固唾を呑んで見守る中、無線担当の技術者がこれまで接続されていたケーブル線を切断した。符号化方式にMPEG-2を採用していたこともあり、最初は若干のブロック・ノイズが発生したが、その後は無線での映像伝送を実現でき、開発チーム全員が大きな拍手と共に大きな感動で包まれたのを鮮明に覚えている。開発チームの技術者には数多くの無理を強いたが、技術者自らが感動することが、お客様に感動していただける商品を作る第一歩になることを再認識した瞬間だった。私は、講演をするときに、よく「人間、人生で何度感動をするかと言うことが価値がある。」という話をするが、これはこういう感動をしてきたことから出ている言葉である。

 エアボードそのものは決して成功したわけではない。無事に発売に漕ぎ着けたものの、新ジャンルの製品ということもありマーケティングでの苦労があった他、社内の組織変更のあおりも受けた。こうした経験が、「ロケーションフリー」の開発に活かされるわけだが、それについては次号以降で紹介していきたい。

ソニーらしさは求めない

 次回の連載に進む前に、少しだけ別の話題に触れさせていただきたい。最近のソニーに関する報道を見ると、「ソニーらしさ」という言葉が随所に出てくると感じる。私自身、エアボードを発表した際に、メディアの方やお客様から、新たな生活スタイルを提供する商品であることが「ソニーらしい」と賞賛を受け、大変うれしく思ったと記憶している。

 ただし当時のソニー社員の中に、「ソニーらしい」ものを生み出すために製品を開発した技術者はいなかった。純粋に、「今まで世の中になかった便利なモノを作ろう」との思いで完成させた結果として、社外の人から「ソニーらしい」とお褒めの言葉をいただけたに過ぎない。

 翻って最近のソニーは、トップ自ら「ソニーらしさ」というキーワードを掲げているが、これ自体が全くソニーを理解していないといえる。長期間にわたって世の中にない新商品を生み出せていないだけに、ソニー再生に向けた道は険しいと言わざるを得ない。加えて、「ソニーのDNA」と発言することそのものも、おこがましいとすら感じてしまうのだ。