部署に戻り、ディスプレイフォンのグループの部下全員には、プレジデントから受けた指示と共に、「このまま現在の開発を続け、いずれ必要となるネット関連の技術を身に付けておくように」という、プレジデントの指示に反するメッセージも伝えた。組織はディスプレイカンパニーに異動するが、開発現場そのものは当面変わらないだろうし、プレジデントとのやりとりで、新しい業務を与えることの出来るような人ではなさそうだと、判断したからである。

突然、アイデアがひらめく

 この日から、「通信技術を導入したテレビとして何を作るのか」という問題を考える日々が始まった。1997年当時、競合他社がインターネット接続機能を備えたテレビを発売していたが、ダイヤルアップ接続が主流でインターネット接続そのものが普及していない状況だったこともあり、販売状況はお世辞にも好調ではなかったと記憶している。

 なお、テレビのインターネット接続機能は、現在もほとんど使われていない。テレビ向けのインターネット機能を訴求するには、現在とは別のアプローチが必要ではないかと思う。

 話を元に戻そう。ディスプレイカンパニーに異動し、通信技術をテレビにどういう形で導入すべきかを考えながら、開発していたディスプレイフォンのモックアップを眺める日々が4カ月程度過ぎただろうか。ある日突然、「ディスプレイのみを取り外して持ち運べるようになり、テレビ番組を視聴できれば、『コードレス電話機』ならぬ『コードレス・テレビ』を実現できる」との思いが脳裏を駆け巡った。

 続いて、「ユーザーが鎮座するテレビの前に移動して楽しむという、テレビ発明当時からずっと続く視聴スタイルを変えられる」「お風呂、台所でも、トイレでも見ることが出来る」といったような、新商品のアイデアが湧いてきた。これが、世界初の持ち運び可能な無線テレビ「エアボード」誕生の瞬間だった。

1カ月で動作サンプルを作る

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 急いで開発チームの部下を集め、ひらめいたアイデアを披露した。すると、全員が目を輝かせて賛同してくれた。これは、私自身のモチベーションを高める結果となったのは言うまでもない。

 これらのアイデアを、出井さんをはじめとする幹部に説明するため、無線テレビの動作サンプルを作ることになった。基本コンセプトとして考えたのは、テレビ番組の映像を無線で伝送できること、そしてインターネット接続機能を備えること。1カ月という期限を決めて、この二つの機能をどのように実現するかを議論していった。

 技術的なハードルが高かったのが映像伝送だ。商品化に必須となる、テレビ映像をデジタル化して無線伝送する技術がまだ世の中に存在せず、一から開発を進める必要があったからである。まずは動作させることが重要と考え、苦肉の策としてアナログFM変調を使って映像を無線伝送することにした。

 一方、インターネット接続機能そのものは、これまで開発していたディスプレイフォンに導入予定だった技術を活用すれば良かった。課題はこちらも無線通信技術だったため、販売中のPHSに実装されているターミナル・アダプタを流用することにした。動作サンプルといえば聞こえは良いが、実際のところはでっち上げといえるものだったわけだ。

 これら二つの技術をやや強引に導入することで、なんとか計画通りに1カ月で動作サンプルの試作にこぎつけた。ここで大きな力になってくれたのが、ディスプレイカンパニー内のテレビ・チューナーの開発部隊から我々のグループに異動してきた5名の技術者だった。

 動作サンプルの画質は低く、FM変調を用いているため人などの障害物があれば画像が乱れるような代物だった。だが、無線テレビとしてのコンセプトを具現化するには十分だった。ソニー幹部に対して無線テレビの動作デモを披露することで、商品開発のGoサインを無事に勝ち取れたのだから。ウォークマンの生みの親として知られる高篠さん(高篠静雄氏)がプレジデントを務めるホームネットワークカンパニーで、エアボードの商品化が決まったのは、1999年4月のことだった。

IEEE802.11bを採用

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 エアボードの商品化には、克服すべき技術的な課題が山積みだった。ただし、世の中に存在しない世界初の商品であることから、発売まで秘密で進める必要があり、部下には社内外には一切内容を喋らないようにかん口令を引いていた。社内でも、「インターネットを使った新しいテレビを開発中」と説明するだけにとどめるなどの徹底振りだった。

 1番の課題はやはりデジタル映像の無線伝送技術だった。解決策として白羽の矢を立てたのが、標準仕様が策定されたばかりの無線LAN規格「IEEE802.11b」である。無線LANの送受信LSIの開発パートナーとして、米国のある半導体メーカーを選定、NDA(秘密保持契約)を締結し、共同開発を進めていった。

 IEEE802.11bを採用した理由は、将来的なコストダウン、及び標準仕様であることに加え、映像伝送するために実行スピードが10Mビット/秒以上必要であるということを満足しているのが、IEEE802.11bだけであったことである。今こそ、有線・無線LANで映像・音声のStreaming Dataを送受信することは当たり前であったが、この時点ではLANで伝送することは不可能と言われていた時代の結論であった。