中国近代化にODA供与

 1980年代になると、日中関係は政治・経済両面で最良の時代となった。それを象徴するのが対中ODA(政府開発援助)である。1979年9月、当協会創立25周年の式典参加のために来日した谷牧副総理一行は日本政府との会談で第一次円借款の供与で合意した。

 日本側は中国側代表団に対して、記者会見の場で「感謝の意」を表明するよう要求したが、谷牧氏は「そんなことをすれば私は帰国できない」と言って拒否したという。国交正常化時に国家賠償請求を放棄した中国にとって、日本からの借款に対し「感謝」すれば、中国の国民感情を逆撫でする。このことを日本側は考慮しなかったのだろうか。

 その後日本政府の対中円借款は、2007年に終了するまで28年間にわたり合計約3兆円が供与された。鉄道、港湾、発電所、通信などのインフラ建設にこの資金が投入され、中国経済の近代化に大きく貢献した。最近になって中国政府要人は公式の場で中国の近代化に対する日本政府の協力に感謝の言葉を表明するようになった。

宝山での日中協力

 この時代を象徴するもう一つのプロジェクトが上海宝山製鉄所建設での日中協力である。日本の新日本製鉄の全面的協力の下で、輸入鉄鉱石を使用する臨海製鉄所を上海に建設することが合意され、1978年12月に着工した。このプロジェクトの経緯は山崎豊子氏によって「大地の子」として小説化された。完成までには紆余曲折があったが、上海宝山製鉄所は中国の主力製鉄所として順調に発展していることは周知の通りである。

突然のプラント契約中止

 1980年代の最大の困難は1981年に発生したプラント輸入契約の中止問題であった。中国は建国以来一貫してプラント輸入を重視してきた。建国初期はソ連東欧から156項目のプラントを導入し、機械工業などの基礎を築いた。1970年代、特に文化大革命が終わった1976年以後は、日本を含む西側諸国から機械、化学などの分野で多数のプラントを輸入する契約を締結した。ところが外貨の資金繰りがつかず、1980年の年末になり中国は突然すべてのプラント輸入契約の中止を通告してきた。関係諸国は困惑し、中国の国際的信用は急落した。契約当事者であった中国技術輸入総公司の某副総経理が自殺するという悲劇も起こった。

 日本政府は円借款とは別に商品借款を供与し、中国の資金不足の解決に協力した。結果的にはほとんどの契約は数年以内に復活した。しかしこの問題以後、中国は大規模なプラント輸入はやらなくなり、もっぱら外国企業の対中直接投資の導入に力を入れるようになった。