このように、中国が大型パネルから中小型パネルへ大きく舵を切った背景には、国家レベルの戦略がある。冒頭で触れたように、中国FPD産業の生産量は、中国国内の期待に反して伸びておらず、産業の主導権を握ることはできていない。中国政府も理由を分析し、FPD産業への参入時期が遅かったことを反省点の一つに挙げている。中国は2004年に第5世代クラスの液晶パネル生産ラインから参入したが、当時の世界の動向は、第6世代から第7世代クラスへと基板サイズの拡大が急速に進んでいる最中だった。途中から参入した中国には、この基板サイズ拡大のスピードについていくだけの力がなかった。

 FPD産業とよく対比される太陽電池産業では、中国は2000年代後半の世界市場の急拡大とともに、あっという間に世界トップの生産国に躍り出た(関連コラム『拡大を続ける中国太陽電池産業の実像』)。この太陽電池とFPDとの大きな違いは、産業育成法の差である。中国の太陽電池産業は2001年頃から欧州の企業や業界組織と協力して産業の基盤を固めていた。その結果、2000年代後半のドイツを中心とした欧州での太陽光発電市場の拡大に合わせて、急速な生産量拡大につなげることができた。

 今から5年ほど前、日本が太陽電池で世界一の生産量を保っていた当時、スイスの冒険家Louis Palmer氏が太陽電池パネルを搭載した電気自動車で世界の6大陸を16カ月かけて走破する冒険の途中、上海の太陽電池展示会の開会式に合わせて会場に到着するという、盛大なセレモニーを目の当たりにした(図3)。国際会議や展示会でも、欧州と中国の関係者が蜜月の付き合いをしていた。欧州が中国に技術的な支援をしながら、欧州の太陽光発電市場の拡大に向けた太陽電池パネルの供給について協力し合っている姿を見て、中国の太陽電池産業があっという間に日本を追い越して世界一になった背景が容易に理解できた。

図3 スイスの冒険家Louis Palmer氏が太陽電池パネルを搭載した電気自動車で世界の6大陸を16カ月かけて走破する冒険の途中、上海の太陽電池展示会の開会式に合わせて会場に到着し、歓迎セレモニーが行われた。
2008年5月、上海の太陽電池展示会「SNEC」の開会式にて撮影。
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 中国のFPD産業では、このような海外との組織的な協力はこれまでなかった。そのため、2004年前後に韓国・台湾の後を追うようにして参入したものの、既に世界規模で大画面テレビ市場が急拡大している状況では、太陽電池のように産業拡大の主導権を取ることはできなかった。この反省を基に、現在の戦略転換が進められている。「これから大きく伸びる中小型パネルの分野に対して、新たに戦略を練り直して巻き返したい」という希望の表れでもある。特に有機ELについては、「技術的にも未完成な部分が多く、今のうちに参入しておけば今後の技術進化にも十分についていける」という狙いがある。