耳を疑う「中外合弁」の提案

 1978年8月、日中平和友好条約が締結され、復活した鄧小平副総理がその批准書交換のため10月に来日した。鄧氏の復活で予想された中国の路線転換は、同年12月の中国共産党第11期3中全会で改革・開放政策が決定され、現実のものになった。

 当協会は10月から12月にかけて中国機械工業代表団一行19人を受け入れ、私は全日程を随行した。団長は第一機械工業部の周建南副部長(現中国人民銀行周小川行長の父)であり、筆頭団員として中国機械設備進出口総公司の賈慶林総経理(現全国政治協商会議主席)が加わっていた。同団が日立製作所の日立工場を参観した時に、周団長が日立の吉山博吉社長(当協会副会長)に「中国に投資して、合弁事業をやってほしい」と依頼した。

 周団長の発言は3中全会で党の正式決定がなされる直前であったが、個別の対外交渉で合弁提案をすることは党中央の了承を得ていたものと思われる。自力更生を旨とし、内債も外債もなく、資本主義国との経済関係は貿易のみにとどめてきた中国。その高官が日本の大企業に対して合弁会社設立を提案するとは、正に晴天の霹靂であった。一瞬、聞き間違いではないかと耳を疑った。吉山社長は周団長の要請をしっかりと受け止めた。2年後に製造業における日中合弁事業第1号となる福日テレビ(カラーテレビ製造)が福州に誕生した。

自分は技術移転に注力

 翌1979年1月1日には米中両国の国交が樹立された。同年7月、中国は中外合弁経営企業法を制定公布した。中国が対外経済関係において、商品貿易、プラント導入、技術導入に加え、外資導入に踏み切り、そのための法整備を開始した。これ以降中国は外資導入を柱とする対外経済政策を30年以上ゆるぎなく実行し、今や「世界の工場」、「世界の市場」として、世界第二の「経済大国」になった。私はそのスタートに立ち会ったことになる。

 当協会は事務局内にいち早く「合弁推進グループ」を設置し、日中合弁企業設立を促進した。当協会は地下足袋メーカーである力王が江蘇省南通市で合弁事業を立ち上げるプロジェクトに全面的に協力し、成功に導いた。福日テレビとほぼ同時期であった。

 私自身は日本の経済が外資導入ではなく、技術導入とその消化・吸収・革新によって発展してきた経験から、「中国も技術導入を主とすべきだ」との考えを持っていた。そのため、1980年代の前半は合弁促進には力を入れず、引き続き対中技術輸出に努力した。しかし1990年代に入ると、対中直接投資が日中経済関係の主流になった。

 今世紀に入って中国は「創新型社会」の建設や「自主ブランド」の確立を重視するようになったが、その前途はかなり険しいと感じる。