メディアでの科学技術に関する情報の流通量も欧米に比べると圧倒的に少ない。1/10という印象です。欧米では、ゴールデンタイムに科学番組が放送されることも少なくありません。私が出演しているNHKの科学番組「サイエンスZERO」は、恐らく民放では放映できないでしょう。スポンサーとして多くのテレビ番組をメーカーが提供しているのに、その中では科学技術の話題がほとんど扱われていないという皮肉な状況が生じています。

1960年生まれ。理学博士。東京大学教養学部と、同大学理学部を卒業。カナダMcGill University 博士課程修了。主な著書に『99.9%は仮説』(光文社新書)など(写真:加藤 康)
[画像のクリックで拡大表示]

 もちろん、欧米でも科学教育には悩んでいる。学生の数学や科学の学力が落ちているという悩みは共通です。ですから,欧米の科学教育を礼賛するつもりはありません。ただ、学校で教わらなくても、社会に出てからテレビ番組や科学雑誌などを通じて知識を得るチャンスが日本より格段に多い。これは確かです。

 その理由を遡ると、明治時代に行き付くと考えています。明治維新以後、日本は欧米の科学技術の便利な部分だけを輸入してしまった。欧米で長い歴史の中で培ってきた哲学から派生した自然哲学という学問の流れは輸入できませんでした。

 欧米の科学技術には本来、神が自然を創ったから自然を解明することで神に迫るという発想があるのです。Nature誌やScience誌のような科学雑誌、特にNature誌は自然哲学の流れを色濃く残しています。『Nature』という誌名には「神様が作った自然」という考え方が残っている。だから、今でもこれらの雑誌は科学のあらゆる分野を扱っているのです。欧米の科学の精神を体現している。だから、この2誌を分析することで、欧米の科学のルーツが理解できるはずです。

「科学が楽しい」と思わせるコミュニケーション能力を

 日本には同じような雑誌は存在しません。専門誌でなおかつ、すべての科学を全体的に扱っているものはない。Nature誌を読んでいると、「科学者の何%が神を信じているか」といった調査を扱うコラムがあったりします。日本の科学誌で「神」という言葉が出てくることは、ほとんどないでしょう。

 日本は、そうしたルーツを知らずに上澄みだけを持ってきた。だから、「不具合が生じたら、なくせばいい」という議論が出てくるのではないでしょうか。ルーツを知っている人々は、社会全体で「便利だから使う、事故を起こしたら使わない」という安易な議論にはなりにくいのです。英国の産業革命でも、機械打ち壊しの運動がありました。でも、打ち壊して元の生活に戻れたかといえば、そうはなっていない。たぶん、できないのです。

 繰り返しますが、欧米の科学を賛美しているわけではありません。ただ、違うのは事実です。日本に欠けている部分は、大きな事故が起きた時に出てきます。「事故は起きる」という前提で科学技術を扱っている欧米では、事故が起きると徹底的に原因を究明する。それは、同じパターンの事故は起こさないようにするためです。それが彼らの技術のあり方なのです。原因を究明して全世界に通達するプロセスを繰り返して前に進んでいます。

 一方、日本は「想定外をなくせ」という発想です。それは不可能なのです。想定外をなくすには、技術そのものの存在を否定するしかない。つまり、科学技術を捨てるしかないのです。神は完璧だけど、人間というのは完璧ではないから自然現象を完全に先読みすることはできない。だから、事故が起きた時には確実に改善していこうということになるわけです。

 日本の将来は科学技術が支えていくしかありません。科学嫌いに「科学が楽しい」と思わせる、社会とのコミュニケーション能力が、これまで以上に研究者や技術者に求められているます。もちろん、私もサイエンス作家として社会と科学の潤滑油として頑張るつもりです。一緒に世の中の科学嫌いを変えていこうではないですか。(談、聞き手は高橋 史忠)

Amazonで購入