日本工業展覧会の役割

 国交未回復の中で、1950年代には日中民間貿易協定が第1次(1952年)から第4次(1958年)まで締結された。1958年~1960年の日中貿易全面中断を経て、60年代に入ると日中貿易は友好貿易とLT貿易(注)の2ルートで行われるようになり、「車の両輪」と言われた。

 商品の実物を見ることは売買双方にとって必要不可欠である。当協会は中国で日本の工業製品を展示し、展覧会終了後それを売却するという活動を実施した。最初は1956年10~12月の北京上海日本商品展覧会であり、北京では125万人が入場した。毛主席も会場を訪れ、「看了日本展覧会、覚得很好、祝賀日本人民的成功」と揮毫した。その後、58年武漢広州日本商品展覧会、63年北京上海日本工業展覧会、65年北京上海日本工業展覧会、67年天津日本科学機器展覧会と継続した。

 私が協会に入った翌年の69年3月には日本工業展覧会が北京で開催された。しかし上海会場は展示品に対する日本政府のココム規制(出品不許可、持ち帰り条件付き許可)に抗議して中止した。当時の厳しい雰囲気を今でも思い出す。

中国展では経済発展を宣伝


 一方、中国側も中国国際貿易促進委員会が主催する展覧会を日本で開催した。1955年中国商品見本市(東京・大阪)、64年中国経済貿易展覧会(東京・大阪)、66年同(北九州・名古屋)である。いずれも100万~200万人が入場した。国交正常化以後の1974年(大阪、東京)と1977年(北九州)にも開催された。当時の中国は社会主義計画経済の時代、輸出商品は農産物、原材料、軽工業製品が中心であり、展覧会も商品見本市というより中国の経済発展情況を宣伝し、中日友好を強化するためのものといった色彩が強かった。

中国が国連の議席回復

 アメリカのベトナム戦争、中ソ対立の激化、中国の文化大革命といった国際情勢の下で、貿易業界の宿願である日中国交正常化はまだまだ遠い将来のことだと思われていた1971年、新しい風が吹いてきた。10月25日、国連総会においてアルバニア等23カ国による「中国招請・台湾追放」提案が圧倒的多数で可決され、中国の国連議席回復が実現した。それに先立つ3月下旬に名古屋で開催された第31回世界卓球選手権大会に中国が6年ぶりに参加し、大会後アメリカ選手団等が訪中した。いわゆるピンポン外交である。これを契機に中米政府の秘密交渉が加速され、キッシンジャー大統領補佐官が秘密訪中し、翌1972年2月にはニクソン大統領が北京を訪問した。私は入院していた病院のテレビで毛沢東-ニクソン会談を見て、なんとも言えない複雑な思いをした。

(注)1962年に結ばれた「日中長期総合貿易に関する覚書」に基づき始められた半官半民的な貿易形態。双方の代表者の廖承志(Liao Chengzhi)氏と高碕達之助氏の頭文字LとTをとってLT貿易と称された。1968年以後、名称は覚書貿易(Memorandum Trade)の英文頭文字をとってMT貿易に改められた。