国交未回復、文化大革命といった政治情勢の下で、広州交易会は単なる貿易商談の場ではなく、関連の対外経済交流の舞台でもあった。交易会の開催期間にその会場を利用して「日中技術交流」も行われた。まだ対中輸出実績のない新製品について、メーカーの技術者が交易会参加という形式で訪中し、交易会会場や付近のホテルの会議室を使い、約1週間の日程で中国側が組織する技術者グループに対して、性能や使用方法等を説明し、質疑応答を行うというやり方であった。

 当協会等が日本企業の紹介希望新製品リストを取りまとめ、中国国際貿易促進委員会技術交流部に提出し、中国側がその中から実施項目を10項目程度選び通知してくる。それを受けて、各メーカーの技術者たちがまとまって交易会に参加する。その世話係が私の初訪中の仕事であった。

黄坤益先生との出会い

 中国国際貿易促進委員会技術交流部からは黄坤益先生(後に国家専利局局長、専利とは日本の特許のこと)がまとめ役として広州に来ていた。黄先生は少しも傲慢なところがなく、年若い私に対しても謙虚な態度で対応し、仕事以外の雑談の中では「毛沢東選集」を読むように静かに勧めてくれた。夫人は医者であり、当時「裸足の医者」として河北省の農村部で巡回医療に従事していた。選集の中からの引用集である「毛沢東語録」を朗読することが商談開始への通過儀礼という雰囲気の中で、黄先生は一味違う風格であった。初めての訪中で黄先生と知り合ったことが、その後長く中国と付き合う私のエネルギーの元になったような気がする。後に当協会が知的財産権分野で中国と交流を行うようになった時、黄先生は国家専利局局長として当協会の活動を支持してくれた。

1971年の日中貿易額は9億ドル

 会期1カ月の広州交易会が閉幕すると参加者は北京行きを申請する。申請者全員が認められるのではなく、必要性に応じて中国側が選定する。認められて北京に行く商社員は「北上組」と呼ばれていた。彼(彼女)たちは次の交易会まで半年間北京の「新僑飯店」に滞在して、北京の各総公司と継続や新規の商談を行う。次の交易会で新しい北上組が決まり北京にやってくると交代して日本に帰るというローテーションであった。

 こうした情況の下で、日中貿易額は国交正常化直前の1971年でもわずかに8.9億ドル。日本の主要輸出品は化学品、繊維品、鉄鋼、機械等であり、主要輸入品は食料品、油脂原料(大豆)、繊維原料等であった。工業製品を輸出し、原料を輸入するという構造であった。