決済通貨は英ポンド

 私は国交未回復の民間貿易時代(1949-1971)の最後の5年を経験した。この時代を経験した人はもう数少なくなってしまった。当時の日中貿易は吉田書簡(1964年5月に吉田茂・元総理が台湾の張群秘書長宛に送った書簡)による対中プラント輸出凍結後、単純な商品の輸出入だけであり、決済通貨は英ポンドであった。そのポンドが1967年11月に突如大幅に切り下げられ、対中輸出が大打撃を受けた(逆に輸入は大もうけ)。このことから当協会は日中覚書貿易事務所(現在の日中経済協会の前身)と共に、「円元決済」の研究と推進活動を行った。

広州交易会で初訪中

 中国側の対外貿易契約はすべて国営の10大貿易公司の総公司が行い、全国の地方分公司はデリバリー業務を行うだけという体制であり、春秋2回(4/15~5/15、10/15~11/15)の「中国輸出商品交易会(広州交易会)」が最も主要な商談場所であった。社会主義諸国を除く全世界の貿易関係者と全中国の貿易関係者が共に広州に集まり集中的に商談を行った。

 当時、香港は中国への表玄関。国交のないわれわれは香港でビザ手続きをするため、往路2泊滞在、帰路も1泊が必要だった。1970年4月、私は広州交易会に参加した。初めての訪中であった。羅湖-深センの橋を歩いて渡り、中国に入境するとそこは別世界。活気にあふれてはいるが、ガソリン臭くて濁った香港側の空気が、短い橋を渡るや一変した。深センは清新な空気に満ち、ラジオから革命歌が聞こえ、広州に向かう列車の車窓から見えるのはゆったりとした農村風景だった。

対日貿易の4条件

 当時、日本のマスコミ等は「文革で中国は大混乱している」と報じていたが、広州市内の公園は若い男女や家族連れで賑わい、珠江沿いの遊歩道には川面を向いて肩を抱き合うアベックの列がどこまでも続いていた。しかし、商談は毛沢東語録の朗読で始まるという極めて政治的な雰囲気だった。

 4月24日、初の人工衛星「東方紅」(500Kgの実験衛星)の打ち上げが成功し、衛星から発信された毛沢東を讃える歌曲「東方紅」のメロディーがラジオで流された。広州市はいたるところで爆竹が鳴り、ドラ・太鼓の祝賀隊が街に繰り出した。

 数日後の5月2日、交易会当局から交易会に参加していた日本企業関係者全員に対して、周恩来総理が4月下旬に北京で発表した「対日貿易4条件」が通知され、日本本社の順守表明が求められた。4条件とは「(1)台湾の大陸反抗、南朝鮮の朝鮮民主主義人民共和国への侵犯を援助する企業、(2)台湾と南朝鮮に多額の投資をしている企業、(3)アメリカの対ベトナム戦争に加担している企業、(4)日本にある米日合弁企業及びアメリカの子会社、とは取引しない」というものであった。