【対談】―― 村井純 × 加藤幹之

若者の成長を止めてはいけない

加藤 村井さんは、どんな少年時代を過ごしていたんですか。

村井 純(むらい・じゅん)氏
慶応義塾大学 環境情報学部長 教授。1955年生まれ。1984年慶応義塾大学大学院 工学研究科修了。1984年東京工業大学 総合情報処理センター助手、1987年東京大学 大型計算機センター助手。1990年慶応義塾大学 環境情報学部 助教授を経て、1997年より同教授。2009年より現職。1984年に日本のインターネットの基礎となった日本の大学間ネットワーク「JUNET」を設立。1988年にインターネットに関する研究プロジェクト「WIDEプロジェクト」を設立した。
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村井 テレビのヒーローものに熱中する普通の子供でした。加藤さん、「少年ジェット」を覚えていますか。

加藤 もちろん。我々の世代のヒーローですから。

村井 実は、僕は当時、少年ジェットに会っているんですよ。

加藤 えっ?

村井 地元は東京の世田谷区成城で、東宝撮影所の町だったんです。だから、自宅の前でヒーローものの撮影がよくあった。みんなのヒーロー「少年ジェット」も撮影班の中では一番若い。だから、少年ジェット役の子役が「すみません。水をください」とヤカンを持って訪ねてきましてね。

 「忍者部隊月光」もテレビで見ると強いのに、監督に叱られたりして実は意外と弱い(笑)。ヒーローが撮影監督のために鉛筆削りをしているとか、ウルトラ怪獣が道を歩いているとか。そういう撮影の裏側を見ていました。だから、ウルトラ怪獣は同郷です。

加藤 へぇー。今で言うところの「コンテンツ制作の現場」に少年時代から触れていたわけですね。

村井 音楽も好きでした。3歳くらいから洋楽を聴いていましたから。小学校の高学年にはビートルズの歌詞を全曲、タイプライターで打っていた。ブラインドタッチを習得したのはその時です。レコードがすり切れるほど聴いたので、ビートルズの歌詞は全部覚えていましたよ。だから、中学に入って英語を習い始めると、授業で「ああ、ビートルズのあの曲のフレーズだ」という場面に出くわすわけです。だから、楽しくて英語は苦労しませんでしたね。

加藤 もちろん、ビートルズの歌詞は英語のままタイプしたんですよね。