学生時代の村井氏は、真空管アンプの製作や音楽の鑑賞といった部屋にこもる活動だけではなく、外の活動にも積極的だった。中学時代にはサッカー部に入り、授業中にもユニフォームを着ているほどにサッカー漬けの毎日だったという。

 YMCAが主催する野外教育活動にも夢中になる。小学校の高学年から夏休みには必ず野尻湖で行なわれるキャンプ「野尻学荘」に参加した。1932年から今も続くこのキャンプは、多くの財界人や文化人を輩出していることで知られる。大学時代の村井青年はキャンプの指導者として米国でも活動した。人をまとめたり、国際体験を肌で感じたりする原点は、この活動にあるという。

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 村井氏とコンピュータは、大学3年生になってようやく接点を持つ。それまでは、とにかくいろいろなことに興味を持ち、すべてに熱中した村井氏が、コンピュータにのめり込むキッカケは、必ずしも前向きだったわけではない。大学3年生で専攻を選ぶ際、正直なところ「これがやりたい」というものがなかった。そこで、「数学は好き」という理由で、設置されたばかりの新しかった「数理」の専攻を選ぶ。

 そこで、指導者に恵まれた。日本のコンピュータの父で、パラメトロン計算機で著名な高橋秀俊さん、プログラム言語「Lisp」の大家である中西正和さんら、計算機科学のそうそうたるメンバーが慶応大学の理工学部にそろっていた。マシン語を学びながら当時は高価だったミニコンに直接触ることができた。ここで再び「夢中」の性格が開花し、家にも帰らずプログラミングの道を進むことになる。

 それからの村井氏は、さまざまな雑誌や書籍で紹介される通りだ。日本におけるインターネットの起源「JUNET(Japan university network)」を作り上げ、世界的な注目を浴びる。ICANNが設立されるよりもずっと前に、個人的に「JP」のドメイン管理を任されるまでになるのである。

少年の好奇心を伸ばす環境を整える

 少年時代の村井氏の「多面的オタク」生活を知り、同氏のような研究者が形づくられたのはなぜかという疑問がかなり解消した。

 今でも村井氏は、インターネットを切り口にさまざまなテーマを追求している。自動車のワイパーの動きをインターネットで逐次収集し、位置情報と組み合わせることで天気が分かる仕組みを作るといった、村井氏の自由な発想は、少年時代の自由な生活が土台にあるのだろう。その行動力と発想力は今後も、医療や災害、スマートグリッドなど、さまざまな場面で活用される革新的な基盤を生み出すに違いない。

 村井氏の話を聞いて感じるのは、「こんなことができるといい」という思いが技術よりも先にあるということだ。新しいビジョンが、技術革新を牽引した。今でも研究室の中で若者たちに負けず、誰よりも好奇心を持って新しい技術開発に取り組んでいることが容易に想像できる。

 学校の成績や将来の安定といった近視眼的な理由で、大人たちが子供の成長を抑えないでほしい。村井氏と話をすればするほど、少年の自由な好奇心を伸ばし、興味のあることに集中させる環境を整えることの重要性を痛感する。日本が次世代の村井氏を輩出するには、大人たちがその点から発想を転換する必要がある。

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