前回に引き続き、日本の「インターネットの父」である慶応義塾大学 環境情報学部長兼教授の村井純氏の少年時代を紹介したい(前回のコラム「我々の日常を徹底的に変えた行動力」はこちら)。

 教育者の家庭に育った村井氏は、テレビのヒーローものに心を躍らせる普通の少年だった。しかし、そのヒーローとの接し方が他の子供とは少し違っていた。自宅近くに東宝の撮影所があり、テレビや映画館でヒーローに接していた他の子供以上に身近な存在だったのだ。

村井純氏。慶応義塾大学 環境情報学部長兼教授。
[画像のクリックで拡大表示]

 村井少年は、当時の男の子に絶大な人気を誇った「少年ジェット」と直に顔を合わせている。怪人や魔人と毎週のように戦っていた少年ジェットは、村井家にヤカンを持って、水をもらいに来たというのだ。なぜなら、村井家のすぐ前で少年ジェットを撮影していたからである。

 最近のカリスマ子役にはお付きのマネージャーやアシスタントがいて、休憩時間にはペットボトルの飲み物が待っていることだろう。当時の子役は、ある意味で「下っ端」だったのかもしれない。少なくとも、少年ジェットは撮影スタッフのために撮影現場の近所の家に水をもらいにいく役目を仰せつかっていたのである。

 ヤカンを持っての登場とはいえ、ヒーローが自宅を訪問してくる状況を幸せと呼ばずして何と言えるか。黄色マフラーをなびかせた少年ジェットと会話し、近所の路上で悪者を退治する現場を直接体験するのである(といっても、当時のテレビはモノクロだったから、私にとって「黄色」はあくまで想像ではあるが)。聞けば、少年ジェットだけではない。特撮の草分けだった「ウルトラQ」や「忍者部隊月光」の撮影も村井家の近所では当たり前の光景だった。

ビートルズの全曲の歌詞を書き写す

 「ウルトラ怪獣は同郷です。月光が撮影の合間に道端にたたずんでいるシーンも覚えています。テレビで見るヒーローは強いのに、撮影中には監督に叱られたりして実は意外と弱い」と村井氏は笑う。

 このコンテンツ制作の息吹に触れた少年時代が、後の「インターネットの父」を形づくる土台になったような気がしてならない。モノやコンテンツを作り上げる過程で必要となる「技術」や「創作」への尊敬の念が、知らず知らずのうちに村井氏の中に醸成されたと思うからである。

 身近だったのはヒーローものだけではなかった。小学校も高学年になると村井氏は音楽に興味を持つようになる。母親が音楽家という環境が影響したのかもしれない。自宅にあった「電蓄(電気式蓄音機)」で、好んで洋楽を聞くようになった。

 当時、DJとして有名だった音楽評論家で作詞家の湯川 れい子さんのラジオ番組を夢中で聴いた。もちろん、当時世界的なムーブメントを巻き起こしていたビートルズの大ファンだった。歌詞カードを見ながら、タイプライターを使って夢中で全曲の英語の歌詞を書き写した。それがキーボードのブラインドタッチを覚えるキッカケになる。英語の意味は十分には分からなくても、音を聞きながら歌詞を書き写したことが、後の英語力につながったことは想像に難くない。

 村井少年の音楽好きは、その後も続く。慶応大学に進学してからも、東京大学の友人と参加したブルース系のバンドでギターを弾いた。東大の五月祭や駒場祭といった学園祭のステージには必ず村井氏の姿があった。そのライブでは、当時売り出し中だった女優の夏目雅子さんが司会をしてくれたこともあったという。