【対談】―― 村井純 × 加藤幹之
僕たちは「群れない」世代なんです
加藤 村井さんがコンピュータに関心を持ったのは、いつくらいですか。
村井 大学3年生になる際に専攻を選んだのですが、その時です。それまでは、むしろコンピュータが嫌いでしたね。
加藤 なぜですか。
村井 同じ世代でコンピュータが好きな学生は、講義中に一番前に陣取っているようなタイプが多かったんですね。僕は大学2年生を3回やっていて、学業についてはあまりまじめではなかった。
当時としては当たり前だった「コンピュータの周りに人間がぶら下がっている環境」が、あまり好きではなかったことも大きいですね。僕の卒論のテーマは発想が逆です。「人間が真ん中にいて、その周りにコンピュータが存在する」という通信ネットワークの考え方が論文の第一章でした。
加藤 2年生を3回ですか。
村井 ブルース系の音楽のバンド活動や、小学校の時代から参加していたキャンプなどの野外活動に夢中で。教養課程の講義があまり面白くなかったということもありました。勉強よりもキャンプが面白かったというわけです。そんな僕も今は学部長ですから、落第しそうな学生に進級の相談を受けることがあります。そんな時は、「大学に6年間いても大丈夫だから心配するな」と(笑)。
加藤 なるほど(笑)。でも、専攻はコンピュータを選んだ。
村井 結局、「何かがやりたい」というハッキリしたものはなく、数理の専攻を選んだんです。数学が好きだったことも大きかったですね。たまたま、当時の慶応大学には計算機科学の大家がいた。日本のコンピュータの父で、パラメトロン計算機を開発した高橋秀俊さんや、プログラム言語「Lisp」の大家の中西正和さんです。
何かのツールとしてのコンピュータではなく、純粋な計算機科学を学べたこともよかった。いきなり、マシン語レベルでコンピュータを扱うんです。とにかく、数理なので論理が面白い。学校には、米DEC社のミニコン「PDPシリーズ」があって、そのプログラミングに夢中で自宅に三日三晩帰らないような生活を始めました。UNIXやC言語が登場し始めた時代でもあります。米AT&T社 Bell研究所のDennis Ritchieさん(UNIXやC言語の開発者)が当時来日した時に、私のことをBell研に「最も印象的な人物」と報告したそうです。
加藤 同年代には、現在のコンピュータやインターネットの業界を作った人々が多いですね。