村井氏は、どちらかといえば権力を嫌い、自由を求める「もう一つのIP」の旗印だろう。制度ではなく、技術の本質に基づいて、その価値を判断し、好き嫌いを決める自由な発想で行動する様子は、私の立場からすると「狭間」が存在しないように見える。それは、恐らく、技術という言語で本質を話し合える研究者の有利な点であり、そうした共通言語の存在する議論をうらやましくも感じていた。

 実は村井氏とは、さまざまな場で一緒に仕事をしたにもかかわらず、まだその「素顔」を十分に存じ上げていないような気がしていた。自らの技術開発と、その普及活動に徹底的に打ち込む村井氏の生き方は、どこから生まれたのか。会うたびに、その点について極めて強い興味を抱いていた。多くのマスコミで取り上げられ、多くの著書も出版するあまりにも有名な村井氏に、このコラムにご登場を願ったのは、ひとえに私の長年の興味からだ。

少年の心を捉えて離さないヒーロー

 村井氏は、父親が慶応義塾大学名誉教授の教育学者で、母親がフェリス女学院大学名誉教授の音楽家という教育者の家庭に生まれた。

 教育者の家庭とはいえ、現在のような私立学校への受験に血道を上げる、ものすごい英才教育を受けたわけではないようである。小中学校は、地元の東京・世田谷の公立学校で過ごした。明正小学校、千歳中学校である。ただ、公立とはいえ、学区外から越境入学の希望者がいるほどの教育では有名な学校だったという。

 そうした教育環境以上に村井少年が心を踊らせたのは、当時の日本中の子供たちと同じだ。テレビのヒーローものである。私も同世代だからよく分かる。モノクロ・テレビの画面に映る多くのヒーローは当時、多くの少年の心を捉えて離さなかった。

 少年時代を思い出しながら話す村井氏にいきなり「加藤さん、少年ジェットを覚えていますか」と逆に質問された。もちろん、知っている。私も同じ世代である。1959年から3年間に渡って放映されたモノクロ・テレビ時代の正義のヒーローだ。忘れるわけはない。

 「勇気だ、力だ」で始まる主題歌は、この年齢になっても3番まで歌える。今でも意味は全く分からないが、少年ジェットが「ウー、ヤー、ター」と言って相手を倒す場面を当時の男の子はこぞってまねしたものだ。

 実は、この少年ジェットに当時、村井少年はリアルタイムに会っている。もちろん、テレビ画面を通してではない。生の少年ジェットである。

 「どんな少年時代だったか」。この質問に端を発して語られた村井氏の少年時代には、後の「インターネットの父」を形づくる大きな土台が隠れていた。

(次のページは、村井氏に聞く「インターネットを生んだ行動力」)