2009年、中華人民共和国は建国60周年を迎え、同じ年に日本国際貿易促進協会(当協会)は創立55周年であった。私自身、協会で日中経済交流の実務に従事して40年以上が経過した。この間体験したことの断面を紹介し、若い世代の参考に供したいと考える。

当協会の創立

 当協会は1954年9月に創立された純民間の貿易促進団体である。戦後の東西冷戦体制はすでに始まっており、当時わが国が国交を正常化していなかった「社会主義諸国との民間貿易」を促進することが設立の趣旨であった。

 当初は中国、ソ連の2大社会主義国との貿易促進、展示会の開催、代表団の派遣受け入れ、中国の輸出商品交易会(広州交易会)への日本企業の参加とりまとめ等の活動をやってきた。その後60年代に入り、この両国の対立が激化し、当協会はソ連との関係が断絶し、中国が主な相手国となった。

 私は東京オリンピックが開催された1964年に大学に入り、第二外国語として中国語を選択した。その担当教授(工藤篁先生)が「中国語では目のことを眼睛という。中国人の瞳は黒いのに、どうして目に青の字を使うのか?」といきなり質問された。先生の中国語及び中国に対する深い洞察に感心し、次第に中国に対する興味が強まった。   

 1968年、私が当協会に入った時、協会はモスクワ事務所をすでに閉鎖しており、業務は対中関係だけであった。その中国は文化大革命(1966-1976年)の真最中であり、人事交流も少なく、日中民間貿易も種々の困難に直面していた。国交が無いため、訪中毎に一次使用のパスポートを申請しなければならず、「ハイテク製品」の対中輸出は厳しいココム規制(注)を受けた。またプラントの延べ払い輸出に対する輸出入銀行の融資も受けられなかった。当時貿易業界の最大の要望は「日中国交回復の早期実現」であった。

日中経済関係の歴史区分

 現在の時点から振り返ってみると、戦後の日中経済交流の歴史は次の四段階に分けることができる。第一段階は1949-1971年の23年間で、中華人民共和国成立から日中国交正常化以前の民間貿易の時代である。第二段階は1972-1977年の6年間で、日中国交正常化以後貿易が急激に拡大した時代である。第三段階は1978-2000年の23年間で、中国の改革・開放以後、対中ODAと対中投資が拡大した時代である。第四段階は2001年から現在までで、中国がWTOに加盟し、経済のグローバル化に積極的に参画するようになった時代である。

(注)ココム(対共産圏輸出統制委員会)とは北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国が共産主義諸国への軍事技術・戦略物資の輸出を規制するために結成し、1950年から活動を開始した委員会で、日本は1952年に加盟した。ココムはソ連が崩壊し冷戦が終結した後の1994年に解散した。