イノベーションとは技術の進化や新しい商品の創出だけではない。国家、社会、政治、文化などにおいて、時代に合わない既存システムや、経済発展の阻害となる体制や規制などを改革することも、イノベーションと言えるであろう。ただし、それを実現するにあたって、いきなり全面的に活動しようとなるとかなりリスクが大きい。そこで特定された地域だけ全国一律の規制と違う制度が提供される「特区」、いわゆる特別行政区という仕組みがあり、大きな役割を果たしている。

 中国は対外的に「閉鎖」の時代から「開放」へと転換し、そして高度成長の軌道に乗せるためには、政治、経済、金融などの様々な領域での改革が欠かせない。壮大な国家イノベーションである。そのイノベーションは、すべて中国の特区から始まった。特区がなければ、この30年の高度成長はないと言っても過言ではない。

深圳特区からの「一点突破」

 1978年から始まった「改革・開放」の国策をどのように実施するのか、当時は誰も分からなかった。1979年に改革の総設計師と言われる鄧小平氏の指示により、深圳市をはじめ珠海、汕頭、廈門の4都市が、初の「経済特区」に指定された。特に香港に隣接する深圳がもっとも中央政府に重視され、重点的な特別区域とされていた。

 特区では、社会主義の特徴でもある「計画経済」ではなく、「市場経済」が導入された。外国企業を誘致するために、輸出入関税の免除などの外資に対する優遇措置が実施された。賃金や人事管理制度の改革、企業の経営自主権の保障など経済体制改革の試みも数多く実施されていた。こういった試みは工業品製造分野だけでなく、株などの金融システム、外国メーカーが参入する商業など、さまざまな分野においても展開された。

 経済特区によってまず変わったのは、人々の意識である。鄧小平氏は、「石を探りながら河を渡る」、「白猫黒猫論(白い猫でも黒い猫でもネズミをとれる猫は良い猫だ)」など有名な持論を展開した。社会主義によって制限されていた政策や意識が大きく転換されたのである。

 意識が変わると、行動も変わる。このような大胆な発言は、当時中国で大きな反響を呼び、全国各地から人材が深圳に集まった。深圳はその後、急速に発展し、「移民の都市」、「チャイニーズ・ドリームの都市」とも呼ばれるようになっていった。元々、広東省の人々は商売好きであり、東南アジア諸国で商売を広げている「華僑」の多くは広東省の出身である。その上、国により高い自由度を与えられ、深圳は起業を重んずる風潮が中国のどこよりも盛んな土地となった。そこには無名の零細企業や中小企業が数えられないほど存在する。その中には、深圳でゼロから事業をスタートし、巨大企業へと成長した民営会社も少なくない、例えば、華為技術(通信設備)、騰迅(インタネットサービス)、BYD(自動車) など多くの著名な企業が生まれた。

 深圳特区の成功は、改革や開放を反対する保守派を押さえて、全国の「看板」となった。これにより、特区の施策は全国へ展開することになっていった。

深セン中心部の一角。30階を越える高層ビルが数え切れないほどある。真ん中のツインタワー(64階建て、高さ280メートル)は複合施設である卓越世紀中心。右下は深セン展示センター。