「先輩、ちょっと相談したいことがあるのですが…」。
 おっと、朝からお局に、アスパラが深刻な顔して相談事ですヨ。

 「ダメダメ、お金は貸さない。それがアタシの主義。絶対にお金は貸さないから!」。
 「せ、先輩、誰がお金を貸してくれなんて言ってるんですか。そんなんじゃないです。真面目に聞いてくださいよ、ほら、ボクと同期の池原君のことなんです」。

 「あっ、お金の事じゃないんだ。ふうっ、それなら聞いてあげる。アタシ、本当にお金を貸すのがイヤなの。おじいちゃんの遺言で、お金を貸すくらいなら、あげて縁を切れ、そう教えられているから、アンタと縁を切るのは少し早いと思ったのよ。ホントに」。

 「もう、先輩、それならボクと縁を切りたくなったときは、お金をくれるってことですね。なんか変だなあ。あっ、そうそう、そんな事より、池原君のことですよ。もう、話を忘れちゃうじゃないですかぁ。実は、昨日の夜、久し振りに同期で呑もうって事になり、例の赤提灯で5人で呑んだのです。で、気になったのは、他の仲間は元気一杯でよかったんですが、池原君が少し落ち込んだ様子なので、何かあったのかと訊いたら、会社を辞めたいって言うんです。何で辞めたいのかって訊くと、それが、特別の理由もなく、要するに、やる気が無くなっているんじゃないかと思うのです。仕事は普通にこなしているし、何かミスをした事もありませんし、特に困った様子もないのに、とにかく辞めたい。そんな感じなんです。先輩、これってどうしたらいいんでしょうか」。

 「よし、それじゃあ真面目に考えてやることにするわね。で、池原君は何か目標があるの? 例えば、何かの資格を取るとか、将来、社長になりたいとか、仕事ばかりじゃなくても、趣味の事でも、要するに池原君、何か、やり甲斐みたいなことを考えているのかしら。なんでこんなことを聞くのかと言うと、どうも、諦めスイッチが入りそうだからよ。人間は、何かの目標が出来たとき、そこでやる気スイッチが入るんだけど、何も無くなってしまうと、知らず知らずに、音も無く諦めのスイッチが入ってしまうのよ。これって、凄く問題なんだけど、静かに静かに、本人も気付かずにスイッチが入るのよ。一度ONになると、今度はOFFにするのが凄く大変。いや、不可能なくらいに大きなパワーが必要になるの。多分、池原君、諦めスイッチが入る直前の状態じゃないかしら。何をやるのも気合が入らないし、集中できない。ただ、目の前の仕事を黙々とこなすだけ。そんな状態じゃないかしら。それって、本人も周囲の人も気が付かないけど、そのまま進むと、諦めスイッチが入ってしまうわよ。困るのは、スイッチが入った事が分からないし、何も起こらないけれど、段々、やる気が失せて行き、そのうち、何をやるにも、可もなく不可もなしでいいと思うようになり、顔も無表情になり、何を見ても感動や感心する事も無くなって行く。つまり、人生なんてどうだっていいと思うようになるのよ。今の池原君、そんな感じがしない?」。

 「いやあ先輩、そう、そうなんですよ。池原君、まさにその通り。呑むには飲むのですが、何か冷めた感じがしていて、冗談も言わないし、仕事の話になると、どうでもいいような、そんな顔して呑んでるんです。以前は、楽しいヤツだったのに、何があったのだろうかって、みんな心配しちゃいましたよ。そうか、諦めスイッチかあ。確かに、将来の希望とか夢とか、そんな話、暫く前から言わなくなってしまったようです。確かに、先輩に言われて思うのですが、逆に、燃え尽き症候群ってあるじゃないですか。よく、スポーツ選手が一番になって、もう目標が無くなってしまい、無気力になるってやつですが、池原君は一番になった訳ではないし…」。

 「きっと、これは当たりネ、諦めスイッチ。どうしてアタシがそう思うかって言うと、実はアタシ、以前、その諦めスイッチが入りそうになったのよ。自分で気付いたからよかったけれど、多くの人は気付かない。さっきも言ったように、カチッともカチャッとも鳴らずに静かに入るスイッチだから、自分では分からないのよ。アタシの場合、帰国して、色んな事があって、初めのうちは、何があっても絶対に負けない、そんな自負や気合が入っていたけど、それが何とか成って、ある程度、心に余裕が出て来て暫く経ってのことだった。それまで張り詰めていた気持ちが、ふっと抜けたようになって、このままの状態が続けばいいわって、一種の安心感かしら、そんな風に思うようになり、そのうち、可もなく不可もなく過ごすんだなあと思うようになり、そして、ま、いいか、こんな人生でと思ってしまいそうになったのよ。そんな時、友達が『どうしたのよ、そんな能面のような顔して』って言ってくれて、ハッと気付いたのよ。自分の心も身体も、独楽(こま)のようにしばらく回っていればいいって、要するに慣性運動で動けばいいと、そう思ってしまったのよ。慣性って、言い換えれば惰性でしょ。何もしないでも回るから、結局、何もしないのよ。外からエネルギーを入れないでも暫くの間は回る、そう思うと、そこで諦めのスイッチが音もなく入るのよ、すうっとね。そして、何より厄介なのは、一度、諦めスイッチが入ってしまうと、それを解除するのが大変だと思うの。余程のことが無い限り、それこそ、天地がひっくり返るほど何か起こらないと、元には戻らない。アタシは入る前に気付いたからよかったけど、ようく周りを見ると、スイッチが入って、もう元には戻らない人、案外、多いわよ」。

 「先輩にもそんな事があったのですか。本当に、一度入ったら戻らないなんて、怖いですね。先輩にもあるくらいだから、池原君にもボクにも、みんなにあるのでしょうね、諦めスイッチって」。

 「本当に怖いことよねェ。でも、アタシが知る限り、この世に二人、諦めスイッチの無い人がいるわよ。アスパラも知ってる人、そうそう、次郎さんと部長よ。あの二人、諦めってことを知らない、いや、あの人達の辞書には諦めなんて言葉、絶対ないと思うわよ、ははは」。

 そんなこんなで、「たまにはおごります」って、局のお誘い。いつもの赤提灯ですヨ。勿論、部長も一緒です。

 「なあんだ、くしゃみが出てしようがないと思っていたら、そんな事かあ。次郎さん、ひでえ話じゃないか、俺達にはスイッチが無いんだとよ。冗談じゃあねえよ、俺達はただのガムシャラ爺(じじい)、そう言ってるのと同じじゃねェか、なあ次郎さん」。

 ははは、言われてまんざらでもないくせに、強がりと言いましょうか、こんな屁理屈を言うのは、如何にも部長ですヨ。でも実は、アタシも同感でして、今まで諦めようなんて考えた事、一度もありませんヤネ。何が何でも、雨が降ろうとヤリが降ろうと、とにかくガンバガンバの一直線。諦めスイッチなんてある訳ないし、例えあっても、そのスイッチが入るなんざァ、一度もありませんでしたヨ。

 「それは、いつも前に進み、上を向いていたからじゃないかしら。次郎さんと部長を見ていると、立ち止まった事が無いと思うくらい、次から次に、いつも新しい事を考えているじゃない。こんな事を言うと、何か照れくさいけど、ガムシャラ爺、すてきよ」。

 「おっと、いつものお局、どこへ行ったィ。へへへ、嬉しくねェと言えば嘘になるが、ホントの話、俺達はいつもデコボコ道しか歩いていない、そう言うことサ。何が何でも、そのデコボコを乗り越えなくちゃいけねえんだから、そりゃあ、ガムシャラよ。感性や惰性でデコボコを乗り越えられるなんて有り得ねェ、ホントだよナァ、次郎さん」。

 そうそう、部長もいいこと言いますヨ。アタシ達、本当にそうなんです。開発てェのは失敗の繰り返し、上手く行ったかと思えば、地獄の底にまっしぐら、そんな事の繰り返しでしたワナ。だから、一度だって落ち着く事なんてありゃしません。いつもいつも、ああしたらどうだろう、こうしたらどうなるか、そんなことしか考えませんでしたヨ。

 「ところでアスパラ、こうしたらどうだろう。その池原君、今度一緒に呑もうって誘ってみようぜェ。俺達の話で元気になればいいし、そうでなくても、ガムシャラ爺がいるってことを知ってもらえばいいってことよ。ナァ次郎さん」。

 「ああ、いいともよ。部長がそう言うんならアタシは賛成だ。だがな部長、俺達の常識は、社会の常識じゃない場合が多いってこと、忘れちゃあいけねえぜェ。池原君の諦めスイッチが、"恐怖のスイッチ"になっちまったら、シャレにならねえヨ。ナァお局」。

 「ふふふ次郎さん、そんなこと心配ご無用。二人を見れば、誰だって元気が出ること間違いなし。しかも、おごってくれるんだから、ねェアスパラ」。

 「そうですよ先輩。諦めスイッチなんてショートしちゃいますよ。そして、ロケット点火スイッチに切り替わること、間違いありませんよ。なんてったって、アルコール燃料、全開ですから!」。
 「あら、アスパラ上手いこと言うじゃない。アンタも分かって来たようね。アルコール燃料、効きそうね。ガムシャラ序でに、アタシも呑むわよォ!」。

 「しようがねェ、ナァ次郎さん、そんときは俺達で割り勘だぜェ」。
 何を言ってんですか、ねェ皆さん。いつも、アタシのオゴリじゃありませんか。でも部長、よほど気分がいいのでしょう。今夜のお酒、美味しそうですゾ。

 では、そろそろお開きに致しましょうかね、どうも、アタシの睡眠スイッチが入りそうですヨ。ふぁぁ~、おやすみなさい…。