「次郎さん、ちょっと相談したいことがあるんだ、付き合ってくれねえか」。
 朝から部長、真剣な顔してますヨ。
 「おいおい、嫌な感じがするじゃねェか、そんな顔して、一体、どうしたんだィ」。

 小会議室で二人っきり、「大丈夫、嫌な話じゃないんだよ、実は、例の佐野君のことなんだが、そろそろ、プロジェクトの責任者にしようと思って、本人に話し掛けてみたんだが、ほら、以前の失敗経験があったろう、そのトラウマから立ち直ることができていないのサ。だから、『自分はできない』って、固辞するんだ。俺が見ると、もう大丈夫、そう思っているんだが、ナァ、次郎さんよォ、どうしたらいいんだろう。優秀だし、あの失敗は過去のこと、もう終わった話だし、いつまでもそんな事を背負っていてもしょうがないことなのに、どう話したらいいだろうか」。

 う~ん、この話、結構、深くて重いですヨ。実は、この佐野君てェのは、それまでは自他共に認める、開発部のエース、そんな感じだったのですヨ。それが、ある開発プロジェクトの先頭に立って頑張っていたとき、その開発、途中で打ち切りになってしまったのですヨ。理由は、技術的にどうしても乗り切れないことが分かり、まあ、断腸の想いで中止打ち切り、そんな経験を彼はしているのですナ。

 アタシも、若い時にそれに近い経験がありますから、彼の辛さも分かるし、まして、リーダーとしての責任感もあり、佐野君はその責任を一身に受けてしまったのですヤネ。

 アタシや部長のように図々しければ、そんな気持ちにはならないのでしょうが、性格と言いましょうか、何とも仕方がありませんワナ。

 「おいおい次郎さん、『アタシ達みたいに図々しく』なんて、俺も一緒にしないでくれよォ。俺は次郎さんと違ってデリケートなんだからヨ」。

 ははは、部長がデリケートなんて、どこが? と言いたいところですが、まあ、この場は放っておいて、本当にこの話、どうしたらいいんでしょうかねェ。

 そこに、お局がお茶を入れてくれましヨ。こんなところがお局のいいところ、きっと心配してくれたんでしょうナ。

 「何よォ、二人で閉じこもっちゃって、おじさん二人でイヤラシイ話でもしてるんじゃないの? 困った時にはお局が頼りになるのよ、ねえ、どうしたの?」。

 いやあ、自分で頼りになると言うくらい、確かに頼りになりますが、それにしても、お局の“地獄耳的気配り”は凄いというしかありませんヤネ。

 「実は……」、部長が佐野君の話をします。じっと部長の話を聞いたお局、「佐野君には、アタシが話をするのが良さそうね。ねェ次郎さん、そうさせてくれない?」。

 お局、何か考えがあるようです。

 そんな訳で、いつもの赤提灯に。アタシと部長はオブザーバーってところですかネ。えっ、部長が言うにはスポンサーだって。そうか、どうせ勘定はこっちに来るんでしょう、まあ、それでいいでしょうヨ。

 「何のお話なんですか? 察しはつきますが、京極さんに誘われるのは嬉しいです。なにせ、ボク達あこがれのマドンナですからね」。
 「えっ、マドンナなんておべんちゃら、佐野君も大人になったわねェ」。
 いやいや、最初からお局の貫録勝ちですヨ。

 「佐野君、今夜は難しい話じゃなくて、久し振りに世間話でもしようって、そういうことよ。次郎さんや部長がおごってくれるというから、ゴチになりましょうよ」って、おいおい、そんなにハッキリ言う事ァないだろうに…。

 「実はね、アタシのおじいちゃんとおばあちゃん、老人ホームに入居したの…」。
 あれっ? お局、全然、本題とは関係の無いような話をし始めましたヨ。

 「そしたらね、面白いことが次々と起こったのよ。例えばね、そのホームでは毎日食堂で食事をするのだけれど、自然と仲良しグループみたいのができて、結構、話がはずむのよ。それを聞いたアタシ、年寄りばかりで何でそんなに話題があるのか、それが不思議だったんだけど、直ぐに分かったのよ。それはね、年寄り同士の話なんて、実はいつも同じ事を言うのだけれど、言う方も聞く方も、それを直ぐに忘れてしまい、いつも同じ話なんだけど、結局それは、いつも初めて聞くことなのよ。これって、素晴らしいと思わない? 人間は歳を取ると、段々と行動半径も小さくなり、友達も少なくなり、話題も無くなる、そう思っていたんだけど、なんと、人間は、歳を取ると聞いた話を直ぐに忘れるようにできているのよ。だから毎日々々、同じ話を繰り返し聞いても、いつも新しい気持ちになれる、そのように、神様がつくってくれたのよ。ねえ、佐野君、人間って素晴らしいじゃない。良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、楽しいことも苦しいことも、人間は直ぐに忘れるようにできているの。そして次にまた同じように、良いことも、嬉しいことも、そして、楽しいことも、直ぐに新鮮に味わえるように、そういうことができるようになっているのよ。アタシ、これを聞いたとき、嬉しくなって、歳を取るのもイヤじゃなく、そうなるのもイイと思うようになったのよ。ねェ、佐野君、だから、そこまで歳を取らなくても、たまには、忘れることって大事じゃないかしら。そう思わない?」。

 そうか、お局の言いたいことはそうだったのですヨ。忘れてしまえ、ストレートに言うと角が立つ、そこのところを見事に丸く収めて話すなんざァ、見事ですゾ。

 じいっと聴いていた佐野君、「京極さん、有難うございます。多分、部長からのお話だと思うのですが、言われること、ようく解りました。いつまでもクヨクヨしたって始まらない、それは自分でも分かっていて、何とかしなくちゃと思いながら、でも、忘れられなかったのです。いや、かえって忘れてはいけないことだと思っていたのです。会社や同僚に大きな迷惑を掛けた、そう思うと簡単に忘れてはいけないと思っていたのです。でも、今のお話を聞いて、『次にまた同じように、良いことも、嬉しいことも、そして、楽しいことも、直ぐに新鮮に味わえるように』って、何か救われるような気がしました。忘れることが、次の新しいことに繋がるんだって、ご恩返しもできるんだと、そう思いました。有難うございます。僕、もう忘れることにします。部長、やらせてください、今度のプロジェクト、しっかりとやります!」。

 「佐野君、分かってくれて有難う! 佐野君のことだから、きっと分かってくれると思ったけど、良かったァ!」。お局、本当に嬉しそうですヨ。

 部長も、「いやあ、良かったよかった。佐野君、大丈夫、キミは大丈夫なんだから、もう大丈夫なんだから。とにかく頑張ろうや、もしも、今度もダメだったら、直ぐに忘れてしまえばそれでいいじゃないか」って、もう忘れる話をしていますヨ。

 「部長、何を言ってんのよォ、最初から忘れてしまおうなんて、早過ぎよ!」。
 「はは、そうだよナァ、違えねェ、忘れることが最初じゃ、シャレにならねえぜェ」。

 いやはや、それにしてもお局の話、本質でしたヨ。人間は、忘れることでいつも新鮮に味わえる、これは本当にそうですワナ。もしも、一度美味しいものを味わって、それをずうっと覚えていたら、いつも比較して、不味かったらガックリするでしょうし、或は、それ以上の味に出合わない限り、感動しなくなってしまいますワナ。

 そう言われると、確かに、動物の中で、忘れることができるのは人間だけかもしれません。猿だって犬だって鳥だって、例えば危険なことやイヤなこと、一度覚えると、きっとそれは本能の中に刷り込まれ、死ぬまで覚えているのかもしれません。虐待された捨て犬は、二度と人に懐くことはないようですが、それは、忘れることができないからではないでしょうかねェ。

 「さあ、佐野君も元気になったし、今夜はお祝いよォ! じゃあ、私の役目もこれでお終い。美味しいものを頂かなくちゃ! さあ、食べるわよォ!」って、お局の本性が現れましたヨ。でも今夜は何でもアリです、アタシも嬉しいですから、楽しくやりましょう!

 「遅くなりましたァ!」。あれれ、アスパラと欧陽春くんが来ましたヨ。どうやら、お局が呼んだようですが…。

 「遅いじゃない、今夜は次郎さんと部長のおごりだから、しっかりと頂きなさいね。ねェ、いいでしょ! 最近、二人を叱ってばかりいたので、今夜は御馳走したかったのよ。次郎さん、部長、宜しくお願いします!」って、お局、それはないだろう…。

 しかし、今夜は大目に見ましょうヤ。こんなに楽しいお酒、久し振りですからネ。

 …でも、こんなに楽しい事、人間は直ぐに忘れてしまうなんて、もったいないと思いませんか、ねェ皆さん。

 えっ、忘れるから、また新しい感動がある、それはそうですが、アタシ達が払う勘定のこと、それも忘れちまいますよ、このシト達は。とほほ…。