【対談】―― 宮田秀明 × 加藤幹之

5000時間の努力で、誰でも専門家になれる

加藤 宮田さんは愛媛県松山市のご出身です。船舶工学を専門に選んだキッカケは何ですか。

宮田 それは簡単で、船が好きだったんですよ。小学校5年生の時に、戦艦「三笠」が横須賀に記念艦として保存されました。その募金活動の一環で松山市の三越で三笠展が開催されたんですね。その時に、当時500円だったと思いますが、『日本の軍艦』という本を買いました。著者は福井静夫さんという海軍技術者で、後で知りましたが偶然この研究室の卒業生でした。

宮田 秀明(みやた・ひであき)氏
東京大学 大学院 教授。1948年生まれ。1972年東京大学大学院工学系研究科船舶工学専門課程修士修了。同年石川島播磨重工業(現IHI)に入社、1977年に東京大学に移り、1994年より同大教授。専門は船舶工学、計算流体力学、システムデザイン、技術マネジメント、経営システム工学。世界最高峰のヨットレース「America's Cup」の日本チーム「ニッポンチャレンジ」でテクニカルディレクターを務めた。著書に『アメリカズ・カップ―レーシングヨットの先端技術―』(岩波科学ライブラリー)、『プロジェクトマネジメントで克つ!』『理系の経営学』(日経BP社)など
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 本のテーマは平賀譲先生です。戦艦「大和」などの設計者から東京大学の工学部長になり、総長も務めた人物ですね。平賀先生が工学部長の時に作った研究室が、私が今いるこの研究室なんです。もちろん、お会いしたことはないですが、今となってはすごく因縁を感じます。

加藤 飛行機ではなく、船だったというのは理由があるんですか。

宮田 それは、単純な子供心です。「何だかわからないけれど、宇宙飛行士になりたい」とか、そんな感じですよ(笑)。

加藤 船乗りになりたいと。

宮田 違います。「作りたい」だったんです。当時から、設計などに興味があったんでしょうね。本当に設計したくて。

加藤 それでは、最初から工学部志望だったわけですね。高校は進学校だった。

宮田 中高一貫校で私が8期生だったので、卒業生を2回しか送り出していない新しい学校でした。

 そこから東大に入学したわけですが、入ってみたら周りにはやはり、すごく頭のいいやつがいるんですよ。船舶を選んだのは、船舶だったら一番になれるんじゃないかと思ったからです。

加藤 当時、造船は花形産業で、船舶工学は人気だったのではないですか。

宮田 確かに花形でした。でも、花形も最後のひと咲きという感じでしょうか。私が高校生の時か、大学に入りたてのころ、文芸春秋で「利益なき繁忙、造船業」といった見出しの記事が出ていました。もう、そういう状況だったわけです。ただ、私が石川島播磨重工業で働いていた5年間はすごく好調でした。利益率が1割くらいありましたから。

 船だったら、自分一人で新しい製品を設計できると思ったことも大きいですね。自動車はチームで作る印象が強い。船の方が一人の開発の自由度が高いんです。飛行機は、国内には米国の下請けメーカーしかなかったですから。