福島第一原子力発電所事故の本質を探るという目的でFUKUSHIMAプロジェクト(http://f-pj.org/)を立ち上げたのは、2011年4月のことだった。賛同者から寄付金を募り、それを資金に事故の検証を進め、その結果を書籍というかたちで公表するという枠組みである。この活動の一環として、5月には、日経エレクトロニクス5月16日号で『福島原発事故の本質 「技術経営のミス」は、なぜ起きた』と題する論文を発表し、そのダイジェスト版ともいえる記事を日経ビジネスオンラインで公開した。

 ここで私が主張したのは、電源喪失後も一定時間は原子炉が「制御可能」な状況にあったこと、その時間内に海水注入の決断を下していれば引き続き原子炉は制御可能な状態に置かれ、今回のような大惨事は回避できた可能性が高いことである。つまり、事故の本質は、天災によって原子力発電所がダメージを受けてしまったという「技術の問題」ではなく、現場の対応に不備があったという「従業員の問題」でもなく、海水注入という決断を下さなかった「技術経営の問題」だったと結論したわけだ。その責任の所在を突き詰めるとすれば、東京電力の経営者ということになる。

 そのことを主張した論文と記事が公開された直後、不可解なことが起きた。東京電力が「津波に襲われた直後には、すでにメルトダウンを起こしていた」との「仮説」を唐突に発表したのである。もしこれが本当だとすれば、事故の原因は「地震と津波」に帰されることになる。その天災に耐えられない安全基準を定めたものに責任があったとしても、その忠実な履行者であれば東京電力が責任を問われることはないだろう。

 これは、東電にとって都合の良いシナリオである。マスメディアは、このことに気付き、その「仮説」の妥当性について厳しい検証を加えるであろうと期待した。ところが実際には、ほとんどメディアは東電シナリオをそのまま受け入れ、むしろ「仮説」を「事実」として一般の人達に認識させるという役割を果たしてしまった。そのころメディアは、メルトダウンという表現を避けてきた東電に対して「事故を軽微にみせようとしている」という疑いの目を向けていた。そこへこの発表である。多くのメディアがそれを「ついに隠しきれなくなって、本当のことを言い始めた」結果と解釈してしまったことは、想像に難くない。

そして制御不能に

 改めて、事故について振り返ってみたい。

 2011年3月12日、東電が経営する原子力発電所(原発)の一つ、福島第一原発の1号機では15時36分に水素爆発が起き、19時04分に「海水注入」が始まっていた。

 しかし2号機とプルサーマル炉の3号機は、全交流電源を喪失したにもかかわらず「隔離時冷却系」(RCIC)注1)が稼働しており、「制御可能」な状態(原子炉の燃料棒がすべて水に浸った状態)にあった。この段階でこの日の夜、東電の経営者注2)が経営者として「2号機と3号機に海水を注入する」との意思決定を下していたら、この2つの原子炉がアンコントローラブル(制御不能)になることはなかったはずだ。

注1)Reactor Core Isolation Cooling system。正確には「原子炉隔離時冷却系」という。

注2)実際に経営に携わっていた取締役(社外取締役を除く)および執行役員のこと。当時の東電の場合、代表取締役の清水正孝社長(当時)と勝俣恒久会長、および取締役の武藤栄副社長(原子力・立地本部長)(当時)。清水は「文系」なので「物理限界」を判断する能力がなかったと主張する意見もある。しかしすべての技術企業の最高経営責任者は、当然ながら自社のもつ技術の「物理限界」を知悉し意思決定する「技術経営」の根本能力(コンピタンス)を持っていなければならない。

 ところが実際には、その日の夜、「海水注入」の決定はなされなかった。そして、翌日日曜日の5時までに3号機は「制御不能」の状態(原子炉の燃料棒の一部が水に浸っておらずそこが空焚きになる状態)に陥ったのである。炉心溶融が起きてしまい、そのあとの8時41分にベントを開いたので高濃度の放射性セシウムやヨウ素などが撒き散らされて、福島第一原発の30キロ圏内と福島県飯舘村などから10万人以上の人々が故郷を追われた注3)。12日の夜までにベントを開放していれば、3号機からの放射線被害は防げたはずなのに。

注3)1号機のベント開放によっても、同様に放射性セシウムやヨウ素などが飛散した。しかしエネルギー出力比から推測すると、3号機のベント開放による放射能飛散量は、1号機の約1・7倍だったと考えられる。

 結局、3号機で「海水注入」がなされたのは、翌日日曜日の9時25分であった。遅きに失したといえるだろう。