(2)視点の高さと主語

 視点の高さが、文章の主語によって差が出る場合を考えてみましょう。まず「主張者自身」が主語の場合、視点は低くならざるを得ません。「主張者自身」が主語であると、自分本位の主張が繰り出され、聞き手はうんざりすることになります。「私は」「我が社は」「我が校は」「我が国は(国際会議にて)」などが主語として述べられる文章は、利己的で功利的で、他を排除する傾向が強くなりがちです。大学生にゼミナールを選択するときの理由を聞いてみると、以下のような回答が返ってくることが多いのです。

 ・単位が取りやすいから
 ・友達が行くから(自分も一緒に)
 ・気楽に楽しく過ごせるから

 これらは、ゼミナールを選ぶ理由として、はなはだ視点が低いと言わざるを得ません。すべてに共通していることは、主語が「自分」である点なのです。

 ・(自分は)単位をとり易いから
 ・(自分は)友達と一緒にいたいから
 ・(自分は)気楽に楽しく過ごしたいから

 このように解することができます。指導教員のことは全く意識していないし、自分と友達以外のゼミ生のことも考えていません。ましてや、課題研究のテーマはゼミナールを選ぶ要件に入っていないことも気になります。教員側から見ると、その大学生が自己虫(自己中心的な人間)に見えるのです。その結果、ゼミナールに入ってからの行動は受動的になり、不都合な事態に直面すると他責の念が強くなり、不平不満が噴出することになります。

 次に、主張者の相手である「対象者もしくは対象物」が主語の場合、視点は少し高くなります。相手を意識しているために利己的とは言えませんが、功利的な傾向が強くなりがちです。「あなたは」「貴社は」「貴校は」「貴国は(国際会議にて)」などが主語として述べられる文章は、利己的ではないものの功利的で駆け引きが伴うものです。大学生がゼミナールを選択するときの理由に、以下のような回答が返ってくるケースです。

 ・指導教員が良いから
 ・研究内容が良いから
 ・就職活動が有利にできるから

 これらは、ゼミナールを選ぶ理由として立派に見えます。主張している本人も立派な主張だと思っています。

 ・指導教員(指導してくれる相手)が良いから
 ・研究内容(研究する対象テーマ)が良いから
 ・就職活動(優良企業への就職活動)が有利にできるから

 このように解することができますが、本人が思っているほどには視点が高くありません。すべてに共通していることは、主語が「対象者もしくは対象物」である点です。相手を意識していることから、自己虫とは言えません。これらの大学生のゼミナールにおける行動は能動的になりますが、不都合な事態に直面すると他責の念が強くなります。不都合になった責任を対象者もしくは対象物に求める傾向が強くなるからです。

 最後に「主張者とは、かけ離れた」主語の場合、視点は高くなります。「主張者自身」をいったん横に置いて主張が展開されるので、聞き手は聞かざるを得なくなります。「日本人というものは」「企業というものは」「大学というものは」「国家というものは」などが主語として述べられる文章は、利己的ではなく功利的でもありません。大学生がゼミナールを選択するときの理由を聞いて、稀に以下のような回答が返ってくることがあります。

 ・社会に役立つ研究ができるから
 ・ゼミナールを経験しなければ、大学の価値が半減するから
 ・ゼミナールの一員になって、誇りを持ちたいから

 すべてに共通していることは、主語が「自分から、はるかにかけ離れている」点です。

 ・(研究というものは)社会に役立つものでなければならないから
 ・(大学と言うものは)ゼミナールを経験しなければ、価値が半減するから
 ・(立派な歴史を持つ)ゼミナールの一員となって、誇りを持ちたいから

 このように解することができます。これらの大学生は、自分の利害をどこかに忘れ去っているのです。ゼミナールにおける行動は能動的ですし、不都合な事態に直面しても自責の念が強く、悪いのは自分という意識が生まれます。

 これらの結果をまとめますと、次のようになります。

図1 視点の高さと主語の関係

 以上のように、主張する文章の主語と視点の高さには関連が深いと筆者は考えています。視点の高い主張を行うためには、主語を自分ではなく相手に、さらに相手ではなく抽象度を上げるべきです。たとえば「自分」よりも「自分たち」、「自分たち」よりも「近隣の人たち」、「近隣の人たち」よりも「社会」、「社会」よりも「国民」、「国民」よりも「世界中の人たち」、「世界中の人たち」よりも「人類」、「人類」よりも「生命体」、「生命体」よりも「子孫を含む生命体」というように、抽象度が高い主語を選ぶことによって視点は高くなるのです。