このところ、環太平洋経済連携協定(TPP)に関する報道に触れない日がありません。ご存じのとおり、TPPは参加国間の関税の撤廃を大きな目標に掲げており、結果として“日本の農業(例えばコメ)を守れるのか”といった議論を呼んでいるわけです。エレクトロニクス業界に身を置く、ある年代以上の方々は、こうした連日の報道に触れるとき、ある過去の出来事と二重写しになる部分があるのではないでしょうか。1980年代に産業のコメ、すなわち半導体を巡って沸き起こった“日米半導体摩擦”です。

 日米半導体摩擦については既にさまざまなところで多くが述べられていますし、日米間の政治問題に発展した大きな出来事でしたので、ここでご説明する必要はないかもしれません。一言でいえば、1970年代後半~1980年代前半に日本の半導体産業が急速に力を付けた結果、脅威を抱いた米国との間で生じたさまざまな軋轢(あつれき)と、その結果として日米間で交わされたさまざまな政治的取り決めなどを指しています。

 その象徴といえるのが、1986年7月に日米政府が取り交わした「日米半導体協定」です。趣旨をかいつまんで言えば、“日本の半導体市場を、米国など海外の半導体メーカーに広く開放することを日本が約束する”ということでした。1980年代といえば、ブラウン管テレビやVTR、CDプレーヤーなどの電子機器で日本が圧倒的に強かった時代。結果として、日本の半導体市場は世界の半導体市場の40%を占めるほどでした。しかも、そのうちの90%を日本メーカー製の半導体が占めていた。米国からみれば、半導体について日本は“鎖国している”と映ったわけです。米国の産業界が政府と一体になって日本に“開国”を迫った。その手段が日米半導体協定でした。

 日本の半導体産業にとってとりわけ大きな打撃となったのは、「日本市場における外国製半導体のシェアを20%以上に高める」という目標の下で、そのシェアが四半期ごとに調査(モニター)されることになったことです。この数値目標を達成するために、当時の国内半導体メーカーは、競合である海外の半導体メーカーの製品を顧客の機器メーカーに推奨する、といった屈辱さえ余儀なくされました。

 こうした状況が引き金になる形で、1980年代後半に世界シェアの50%を占めていた日本の半導体メーカーの地位は徐々に低下し、1993年には米国に抜かれ、1998年にはDRAMの売上高で韓国に抜かれました。もちろん、日本の地位低下の理由を日米半導体協定だけに求めることはできませんが、大きな要因となったのは確かです。

 日米半導体協定の締結から10年後、改訂版が1991年8月に発効してからは5年後に当たる1996年、日米半導体協定の失効後の枠組みを決めるための交渉が日米間で行われました。この交渉に、日本側代表メンバーの一人として参加したのが、牧本次生氏です。日立製作所で長く半導体事業を率い、同社専務を務めた後にソニーへ電撃移籍した、“ミスター半導体”の異名をとる人物です。

 1996年の交渉では、結果として日本側が協定の終結を勝ち取ります。牧本氏ら日本側交渉団は、どのような戦略で協定を終結へと導いたのか。15年を経た今、その秘話を牧本氏が長時間にわたるインタビューで本誌に明らかにしてくれました。その内容を2011年10月17日号から「ドキュメンタリー 日米半導体協定の終結交渉」と題するコラムで連載しています。現在、第3回までを載せたところですが、近く発行する11月28日号で最終回を迎えます。ぜひ全4回を通じてご一読いただけましたら幸いです。

 冒頭で触れたTPPと日米半導体協定はその対象や趣旨こそ大きく異なりますが、日米半導体摩擦を振り返ることは、国家間貿易に関する取り決めが、それに関与した国の産業競争力にどのように影響し得るかを知らしめてくれます。TPPをめぐる諸問題を考えるための一助としていただければ幸いです。