『まさか返事が来るとは思わなかった。
三洋電機のオーディオ子会社、三洋テクノ・サウンド新規事業部長の鈴木孝夫は海の向こうから来た電子メールのアドレスを何度も見直した。
Steve Jobs
それは確かに、米アップルコンピュータの創業者、スティーブ・ジョブズからの返信だった。1999年7月のことである』

 これは「三洋電機 井植敏の告白」(2006年 日系BP社 刊)の一節です。

 90年代に国産ラジカセが競争力を失ってしまい、三洋電機のオーディオ事業は慢性的な赤字に陥っていたという背景がありました。普通のオーディオを作っていたのではダメだということで、三洋がこのとき打った起死回生の一手がスティーブ・ジョブズへの新しいオーディオシステムの提案でした。

 当時アップルはカラフルな半透明の筐体で斬新なデザインを施したiMacで復活の足掛かりを掴み、次の一手を探していたところでした。そこに家電メーカーとして液晶、メモリー、2次電池などのデジタル携帯プレーヤーに必要な要素技術を持つ三洋電機からパートナーシップのオファーが届いたのです。

 当時三洋電機は社内で「リキッドオーディオ」と呼んでいたデジタルオーディオ構想を持っていました(後に名称は変更されています)。それはテープやCDといった可動部分を持たずに、半導体メモリーに楽曲データを記録する機能を持ったオーディオ装置でした。これを更に発展させて、三洋は楽曲をインターネットからダウンロードさせて配信するというアイデアを持っていました。

 1998年には三洋電機は、デジタルカメラで世界シェアの2/3を誇っており、その基本技術は米国ベンチャーと組むことで手に入れていました。できるところと分け隔てなく手を組むという発想とその基になるさまざまな成功体験があったのでしょう。だからこそデジタル携帯プレーヤーの開発においてもアップルと手を組むという戦略を実行しようとしたのかもしれません。

 しかし交渉は約1年で打ち切られてしまいます。いろいろと両社の間に溝がありました。この本では、三洋がアップルのロゴを使用したかったけれどアップルがこれを承諾しなかったこと、データの転送方法にアップルは当時最先端の規格だったUSBを使いたかったが三洋はコストを考えるとそれは容認できなかったといったことが交渉の障害として挙げられています。結局この時点で両社は袂を分かち、三洋とアップルはそれぞれ自社ブランドの携帯音楽プレーヤーを発売することになります。

 2001年11月に発売されたiPodに関して、その後の大ヒットに至った詳細はここに書くまでもなくみなさんがご存じの通りです。最初はイノベーターやアーリー・アダプターといったユーザーが使用し始め、徐々に売り上げを増やしていったiPodですが、後にレコードレーベル各社と交渉を成功させて、スタート時点で20万曲の楽曲を一曲99セントでダウンロードできるようにしたiTunes Music Store の立ち上げと共に、その販売数を圧倒的に伸ばしていきました。

 これに対してアップルにネットからの楽曲ダウンロード配信というアイデアで提携を持ちかけた三洋は、日本の大手レコード会社をも説得できず、韓国、香港の楽曲と関西系の路上アーティストなどのアマチュアバンドの楽曲を2000曲しか集められなかったのです。三洋の楽曲配信システムであるmusic.sanyo.com はこうして失敗しました。