それもそのはずである。徐教授の強みは、中国人であることではない。日本社会で日本人と同じように悩み、努力をして、成功を積み重ねてきた。少し考えてみると、当たり前と言えば当たりの話だ。どうも私自身が日本人と外国人を区別する色眼鏡をかけていたようで、恥ずかしい気持ちになった。

 外国に行って、故国との関係や、故国での経験を生かしてビジネスをするだけが成功の道ではない。確かに、中国やインドの出身者たちは、米国に移住し教育を受けて職業に就く時、米国人と同じように堂々と競争している。私も17年以上の米国生活を経験したが、その間はずっと日本企業の派遣社員として約束された地位にあった。本当の意味で現地社会に裸で入り込んで、競争を経験したわけではない。

三次元メディアが開発した3次元立体視を使うロボットの目。
[画像のクリックで拡大表示]

 出身国とは関係なく、現地社会の中で現地の人々と同じ土俵で競争するのだから、出身国との比較など普段考える機会も必要もない。「そうか、現地で成功するには、まず現地に飛び込み、溶け込むことが大事なのだ」とうなずきながら、インタビューを続けた。

 徐教授は、南京を省都とする江蘇省の出身である。両親がいずれも学校の教師という家庭に生まれた。古い歴史を持つ工学系大学である南京工学院(現在の東南大学)で通信分野の学部を卒業後、政府派遣の留学生に選ばれて来日した。

 1983年10月に来日するまでの半年は、大連で日本語教育を受けた。短期間で大学院入学レベルの日本語をマスターすることは、さぞかし大変だったであろうことは想像に難くない。

 翌年の4月に大阪大学の大学院に入学し、コンピュータビジョンの研究室に所属した。ここで選んだテーマが、コンピュータによる3次元立体視の研究だった。両眼視差のある右目用と左目用の2枚の画像から、同じ位置の点を対応付ける立体視の基本となる技術の研究だったという。この研究が、後の起業に至るスタートポイントになったわけだ。  

 この後、博士課程を経て、博士号を取得した。その1989年に、徐教授の人生に大きな転機が訪れた。同年6月4日に起きた天安門事件である。

事件で大きく変わった研究者人生

 当時を覚えている方は、ご存じだろう。日本では、テレビで連日現地の生々しい状況が映像で流れた。それを見た徐青年は、日本に留まることを決意する。

 実は、博士課程の修了後、徐青年は北京大学で教壇に立つことが内定していた。1989年9月に中国が新学期を迎えるまで、たまたま日本の研究開発機関で研究を続けていたのだ。

 徐教授は、日本に留まった決意の理由については多くを語らなかった。ただ、大混乱の中にあった中国に帰国することが不安で、若者の目には将来を期待できないと映ったことは想像できる。それだけの大事件だった。

 当時不安を感じたのは、徐青年だけではないはずである。27年後に繁栄する中国の今の姿を誰も予想できなかったのではないか。歴史に「もし」はないといわれるが、事件が起きず、徐青年が北京大学に迎えられ、その後の時間を中国で過ごしていたら、恐らく全く別の人生だっただろう。

 それが後にプラスになるか、マイナスに影響するかは分からない。ただ、国の政治は、確実に多くの人々の人生を変えてしまうのである。

(次のページは、徐氏に聞く「日本で起業した理由」)