ソニーCSLに入社して新しい研究開発テーマを模索する中で、北野氏は生命現象を解明する生物学を、「コンピューターなどを用いたシステム解析によってできることが面白い」と考え始めた。いろいろな学会やシンポジウム、セミナーなどでさまざなな研究者と議論し、基礎的な学術論文を数カ月にわたって読んで考え出した研究開発方針だった。議論した著名な研究者の中には、否定的な見解を話した方もいたが、「逆に、だからこそ新天地を切り開けると感じた」という。

 生命現象を数理モデルで解析するなどの研究成果がではじめたころに、ERATOの研究リーダーに選ばれ、北野共生システムプロジェクトが始まった。このプロジェクトはソニーCSLの研究員という会社員としてではなく、北野氏個人の裁量に任された。ソニーCSLでの研究の仕事と切り分けるために、東京都渋谷区の神宮前にプロジェクト拠点を構えた。プロジェクトチームは、細胞や個体発生のレベルで探求するシステムバイオロジーのチームと、知能・行動レベルで工学応用や産業展開を目指した共生系知能チームの二つを編成した。

 北野研究リーダーはプロジェクトの基本方針を「大きなコンセプトに基づくボトムアップによる研究とし、試行錯誤を多くする」とした。プロジェクト進行過程では「個人としての異才をできるだけ多く発見し、異才が組み合わされたチームを構成し、その中で異才を育成し早く独立させる」と決めた。個人としての異才を早く独立させることによって「スピンオフなどによって、研究成果を社会で目に見える事業展開とする」ことを目指した。

 北野共生システムプロジェクトのチーム構成は、日欧米で連携する国際的なものになった。プロジェクト終了時点では、主要な中核研究者は日本8人、米国4人、欧州3人というチーム構成となり、これにスタッフ研究者が参加した。正確には、チーム構成は時系列でどんどん変化している。プロジェクトチームの構成は、その時点での最適を貫いたからだ。北野研究リーダーは原則、プロジェクトチームへの参加希望者には門戸を開き、出て行く者には慰留をしなかったようだ。

「興味がある」といって異才がプロジェクトに次々と参加

 北野研究リーダーは北野共生システムプロジェクトに参加した“異才”の代表格として数人の名前を挙げる。その一人である松井龍哉氏は、99年から2001年までデザイナーとしてプロジェクトに参加し、その後はスピンアウトし、2001年9月にベンチャー企業のフラワー・ロボティクス(東京都渋谷区)を創業し、社長に就任した。2005年にフラワー・ロボティクスを現在の株式会社組織に変えた。

 松井研究員は日本大学を卒業後に、丹下健三都市・建築設計研究所の所員を務め、98年にフランス国立高等工業大学大学院を修了し、その後はIBM・ロータスフランス社のデザイナーを務めていた。北野研究リーダーによると、「プロジェクトチームを組織し始めたころから、顔を出し始め、チーム編成の初期設計にかかわり、結局、チームに参加したと記憶している」という。プロジェクトチームに面白そうと参加し、時間が経つとスピンアウトしていった典型的な人物のようだ。

 松井氏はスピンアウトしてからは、ヒューマノイド型ロボット「SIG」「PINO」「POSY」やマネキン型ロボット「Palette」 などを開発し、ロボットデザインの普及で活躍している異才である。松井氏自身が北野研究リーダーと同様に元々、国際的に活躍していて、プロジェクトチームを経て、自分の道を切り開き始めた異才である。北野研究リーダーは「松井研究員はバイタリティーの塊のようなデザイナーで、起業して成功したいと考えていた」と語る。

 古田貴之氏は2000年から2003年までプロジェクトに、ロボット開発グループリーダーとして参加した。現在は千葉工業大学の未来ロボット技術研究センター所長を務めている。「青山学院大学大学院理工学研究科の学生数人がプロジェクトチームに自主参加し始めた中の一人で、結局その時の学生全員がチームに参加したと記憶している」という。プロジェクトチームでは小形の人型ロボットの開発を手がけた。その研究成果の一つは、世界初の人工知能を搭載したサッカーするロボットやバック転するロボット「morph2」だった。古田貴之所長は現在、新進気鋭のロボットクリエーターとして世界から注目されている。