篠田 もちろん。だから、社内の仲間を巻き込むわけです。酒を飲みながら(笑)。
加藤 その中からすごいことが出てくる。
篠田 酒の席で夢を語ると、仲間が興味を持って身を乗り出してくる雰囲気がありましたよ。明石の研究所は、本社からの程よい遠さも良かったのかもれません。あまりにも管理部門のそばにいると目が行き届き過ぎてしまう。もちろん、ある程度の管理は必要ですが、管理しすぎてもいけないんでしょうね。
加藤 これまでの技術者生活で一番苦労したことは何ですか。
篠田 病気ですね。30歳代前半で急性肝炎にかかりました。人間は元気なときにはひっぱたいても病気にならないのに、一度病気になるとなかなか治らない。会社と病院と自宅の3カ所を行き来するだけ。後は寝ているしかない。人生って、こんなにつまらないのかと思いました。
病気になったのは、カラーPDPの開発にゴーサインが出た直後でした。その後、病気が治って事業部で復職し、カラー化技術の開発は一人でやってくれという話になった。幸運だったのは、すぐ近くに工場があったことです。当時の工場は、製造装置が今のようなブラックボックスではなかったので、少し工夫すると簡単に試作できた。もちろん、一人ではできませんよ。やはり、そこで武器になったのは酒です(笑)。
上手な人は辞めていった
加藤 苦労の時代を支えたのは奥様ですね。出会いは、いつですか。
篠田 僕は、広島大学時代にマンドリン・クラブに所属していたのですが、彼女も同じクラブのメンバーでした。それがキッカケです。
このクラブに所属したことも、チームワークとハーモニーを学ぶ貴重な経験でしたね。公演会を目指して苦労しながら練習を続けると、次第にメンバーの演奏が調和してくる。公演会が終われば、それまでの苦労を肴に感動しながら酒を飲むわけです。
クラブには入学した当初に同期の男子学生が5~6人いたんですが、僕はその中でも不器用で下手な方でした。新入生の多くはマンドリンを弾いた経験がありませんから、クラブに入るとすぐに合宿に連れて行かれて、1週間ほどの特訓を受けるんです。特訓の合間に演奏の試験を受けるんですが、僕は本当に下手だったので全く試験を通らない。
不思議なんですが、僕よりも上手な同期はなぜか途中で辞めていった。残ったのは、私を含めて下手な方から数えた方が早い2人でした。それを考えると、「鈍」は才能なのだと思うんです。下手な人は、コツコツと一生懸命に練習する。最終的には、入学時点で一番下手だった僕がコンサートマスターもやりましたから。
技術開発も似ている気がします。PDPのカラー化だって、僕だから実現できたわけではないと思うんです。誰がやっても成功したはずですよ。
たまたま、あきらめないで続けたのが僕だった。もし、病気になったときに開発をあきらめていたら、今のPDP市場はなかったわけです。そういう可能性を若い人たちは持っている。運もあるかもしれないけれど、あきらめない気持ちが運を呼び込んでいるところがあるのだと思います。
(次回に続く)