【対談】 ―― 篠田傳×加藤幹之


「鈍」なほど努力する――
それは才能だと思うんです

加藤 東日本大震災の影響で、日本はまた元気がなくなるのではないかという懸念があります。篠田さんは富士通時代に明石の研究所でご活躍でしたが、阪神・淡路大震災の時には何をなさっていたんですか。

篠田傳氏。篠田プラズマ 代表取締役 会長兼社長。1948年山口県生まれ。73年広島大学大学院 工学研究科 修士課程修了後、富士通入社。83年にカラーPDPの基本構造と駆動法を発明し、92年に世界初の21型フルカラーPDPを開発。2001年に富士通研究所フェロー。05年に篠田プラズマを設立し、07年に富士通研究所を退職。08年から現職。
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篠田 実は、ちょうど川崎事業所に転勤した時期で地震は体験していません。奇しくも赴任の初日が地震の日でした。

 単身赴任だったので、首都圏での生活環境を整えてくれた妻を前日に駅に送っていった。その道すがらの電信柱に「地震に気をつけよう」というような内容の張り紙がありましてね。「東京は大変だ。関西は地震がなくていいね」と話しながら歩いたのを覚えています。

 翌日の朝、起きてテレビを付けたら大震災だと。「震源は淡路で、神戸は壊滅的」と報道していた。私の自宅は明石でしたから、神戸よりも震源に近い。心配で電話したら早朝だったからか、幸運にもつながったんですよ。私の第一声は「お前、生きているか」でした。向こうは電話に出ているのにね。それくらい動転していたということです。

加藤 ご家族は無事だったのですか。

篠田 家は少しダメージを受けましたが、幸い家族は無事でした。ただ、すごく恐ろしかったようで、余震には敏感に反応していましたね。

 とにかく、自宅に戻ろうと思ったんですが、赴任初日でしたから、まずは事業所に挨拶に行った。「お世話になります。帰ります」と。事業所には製品化した21型のPDPが展示してあって、震災の映像が流れていた。神戸の街が燃えていました。帰れないと悟った。

本当に言葉にならない

篠田 その日はとりあえず名古屋まで行きました。ちょうど学会が開かれていたので。翌日の朝に山陰を経由すれば帰宅できるという情報を聞いたんです。それで、JRの在来線に飛び乗って帰宅しました。

 私も終戦直後の様子をテレビ番組でしか見たことはないですが、目の前に広がっていたのはそういう風景でした。戦後の焼け野原とは、こういうものだったのだろうと思った。地震後は、週末に必ず明石に帰っていましたが、神戸市内は電車が走っていませんでした。それで、電車を乗り継ぐために神戸の街の中を2時間ほど歩くのが日常でしたが、ひどいところは木造建築が跡形もなくなっていて、そこから震災前には見えなかった海が見えるんですよ。

 PDPの工場も、巨大な製造装置の位置が地震でずれていましたね。びっくりした。こんなに大きいものが何mも動くのかと。ただ、大変な状況でしたが、神戸は素晴らしい復活を遂げた。当初は、本当に復興するかどうかかなり心配でしたが、人間の力はすごいと思いますね。

加藤 今回の震災は、技術者としてどう感じましたか。

篠田 本当に言葉にならないのひと言です。特に原発事故はあってはならないこと。技術者としては、「想定外」という言葉を発することは許されないのだと思います。科学技術が、あれを引き起こしたわけですから。