篠田氏は1973年に富士通研究所に入社し、PDPの研究開発に全精力をつぎ込んだ。同氏の長年の努力はPDPのカラ―化という発明に結び付き、PDPテレビは21世紀に入って世界的な普及を遂げた。この歴史は、もはや説明するまでもない。篠田氏の努力なしには、恐らくPDPが世界的な商品に成長することはなかっただろう。

折り曲げられる大画面
PTA(プラズマ・チューブ・アレイ)の大きな特徴の一つは折り曲げられること。写真は、2007年の技術発表会で説明する篠田氏
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 だが、富士通時代に篠田氏が歩んだ道は、必ずしも平坦ではなかった。

 篠田氏に「これまで最もつらかった経験は何ですか?」とたずねると、即座に「病気と入院生活かなぁ」という回答が返ってきた。

 1979年にPDPのカラ―化の基本原理を開発し、研究所で本格的な研究を始めようとした矢先に、篠田氏は急性肝炎を患い入退院を繰り返すことになる。病状は一進一退を続け、入院生活は2年に及んだ。

 「あの時、病気に負けていたら、今のPDP市場はなかったでしょうね」。篠田氏はつらい過去を淡々と振り返る。

新たな市場を生む構想を密かに

 PDP技術が大きな市場を生み出した後も、篠田氏が心を痛めたであろう出来事はあった。

 最高の技術、多くの特許を保有しながら、富士通は2005年にPDPを開発・製造する事業から撤退したのである。同社は、合弁で事業を継続してきた日立製作所に事業を譲渡した。

 PDP市場は成長していたが、製造設備への巨額の投資競争が事業の成否を決めるという状況が分かると、富士通は事業徹底という苦渋の選択をした。その後、液晶パネルや有機ELパネルのようなライバル技術との競争が激しくなり、PDP市場でパナソニックや韓国勢の寡占化が進んだことを考えれば、会社としての経営判断は否定し難い。

 ただ、人生の大半をかけて生み育てたPDP技術が自分の会社から去っていったことは、篠田氏にとって病気にも増して辛い経験だったのだろうと、私は密かに思っていた。

 それでも、篠田氏は我が子同然のPDP技術をあきらめていなかった。新たな技術と新市場を生み出す構想を密かに練っていたのである。

(次のページは、篠田氏に聞く「大震災に技術者として感じたこと」)