特に印象深いのは、PDP技術を巡る特許紛争だ。韓国Samsung SDI社との全面紛争の結果、富士通の要請でSamsung製のPDPの輸入差し止めが認められたことは、今でも脳裏に焼き付いている。激しい技術競争、ビジネス競争の傍らで、ささやかながら支援ができたことは、私にとって貴重な経験となった。

超大画面のディスプレイ技術で勝負
篠田プラズマは、PTA(プラズマ・チューブ・アレイ)と呼ばれる技術を使った超第画面のディスプレイ技術の開発を進めている。写真は、2010年4月に関西国際空港に導入された製品の例
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 その技術を開発した篠田氏がベンチャー企業で采配を振るっている。大きな市場を切り開いた技術者がベンチャー経営者として再挑戦する思いを聞いてみたいと考えていた。

 もう一つのキッカケは、今回の大震災である。

 篠田氏は、兵庫県明石市にある富士通の研究所を拠点として研究開発を続けてきた。家族と住む自宅は、1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害があった地域に近い。日本の科学技術が大きな試練を受けている今、大震災からの復興を見てきた篠田氏の生き方に、改めて興味を持ったのである。連日、東日本大震災の被害と復興のニュースが流れるある日、久しぶりに篠田氏と会う機会を得た。

単身赴任生活を本格化した直後に

 篠田氏自身は、阪神・淡路大震災の日に神奈川県川崎市にいた。偶然にも地震の直前に富士通の川崎工場への異動辞令があり、人生で初めての転勤を体験した。関西に帰宅する夫人を前日に駅まで送り、単身赴任生活を本格化しようとした直後の震災の報だったという。

 地震の揺れを自ら体験してはいないが、自宅は被災した。家屋は壁にひびが入る程度で済んだものの、家の中は大変な状態だったという。自宅の塀はすべて倒壊した。大黒柱のいない家族の不安、その家族を残して単身赴任する篠田氏の心配は想像に難くない。その後も、週末ごとに自宅と川崎を往復する日々が続いた。

 「家族は余震の一つ一つを怖がっていた。神戸の人たちはみんな心にダメージを受けたと思う。私自身は地震も復興も直に体験していないけれど、そこから立ち上がる様は見た。人間はすごいですね」

 しばらくは電車も復旧せず、乗り継ぎのために神戸の街を歩いて移動する日常が続いた。週末の帰郷のたびに復興が進む街の様子を見ながら、篠田氏は人間の強さを感じたという。