「人材は4流、管理は3流、設備は2流、しかし顧客は1流」

 電子機器受託生産(EMS)の世界最大手、フォックスコンの創業者である郭台銘董事長が、自らの経営哲学を説明する際、好んで話すといわれる言葉だ。ビジネスを発展させるカギは、いかに一流の顧客をつかむかにかかっているということなのだろう。

上海郊外松江区にあるフォックスコングループの工場

 そのフォックスコンの顧客の代表格に挙げられるのがAppleとMicrosoft。iPhoneやiPadの世界的ヒットでいまをときめくスティーブ・ジョブズ氏がAppleを創業したのは1976年。Windowsで世界を席巻したビル・ゲイツ氏がMicrosoftを創業したのは1975年。そして後年、AppleとMicrosoftを顧客に抱えることになる郭台銘氏が、フォックスコンの前身となる鴻海工業を立ち上げたのは1974年のこと。パソコン時代の申し子とも言える3人が、ほぼ同時期に創業していたという事実は興味深い。

 その郭氏は1950年、台湾の台北県板橋(当時)で、4人姉弟の長男として生まれた。父親は中国山西省出身で国民党の警察官。母親も中国山東省の出身で、2人は1948年、台湾に渡った。

 16歳で海運学校に入学し貿易実務などを学んだ郭氏は、兵役を経て、復興航運公司という海運会社に就職した。担当した仕事は船のスケジュール管理と荷為替手形の管理。当時「台湾のウォール街」と呼ばれた台北の館前路にあるオフィスにスーツにネクタイ姿で出勤する郭氏は、傍から見ればサラリーマンの道を順調に歩み始めたように見えたことだろう。しかし郭氏本人の思いは違った。「貿易で扱う商品を作る工場を持たなければ、貿易をする意味がない」。

 そう考えた郭氏は1974年、数人の友人と共同で、台北に白黒テレビのチャンネルのつまみを作るプラスチック成形の工場を設立する。ところが創業から間もなくして、オイルショックが発生。大きな打撃を受けたことですっかりやる気を無くした共同経営者から株を買い取り、郭氏は一人で経営を続けた。

 その甲斐あって、会社は数年で軌道に乗るのだが、郭氏は「これ以上の飛躍を遂げるためには、優れた金型が無ければ無理だ」と思い至るようになる。当時の郭氏を知る人たちは、郭氏が寝ても覚めても「金型、金型」と、うわごとのようにつぶやいていたのを覚えているという。

 本格的な高度成長期に入る前夜の当時の台湾で、中小企業の経営者たちは、多少の蓄えができると不動産を購入するケースが圧倒的に多かったという。しかし郭氏は1977年、工場が黒字転換を果たして手にした蓄えを手に日本を訪れ、金型製造の設備購入に注ぎ込み、念願の金型工場を設立する。

 「これからはコンピュータの時代が到来する」と読んだ郭氏が選んだのは、パソコンのコネクタ製造だった。

 1985年、海外市場開拓のため、郭氏は訪米する。節約するため食事は1日ハンバーガー2個までと決め、自らレンタカーのハンドルを握り、1泊15ドル前後のモーテルを泊まり歩きながら、飛び込みでセールスをし、顧客を増やしていったという。

 1988年には中国に初進出し、従業員150人のコネクタ工場を経済特区の深センに設立する。1992年には、「なれる者から先に豊かになれ」という当時の最高実力者、?小平氏の「南巡講話」で経済の改革開放路線が決定的になると、深センに「見える範囲全部」の広大な敷地を購入。そこで原材料から部品、アッセンブリーまで一貫した垂直統合のサプライチェーンを構築して時間、費用などコストを徹底的に抑えるとともに、大量の人員で大量生産することで圧倒的な価格競争力を打ち出すという現在につながる体制を整えた。

 こうして築き上げてきたフォックスコンの売上高は2010年、前年比53%増の2兆9900億NTドル(約8兆3720億円、1NTドル=約2.8円)、税引後純利益は前年比1.9%増の771億5400万NTドルにまで成長。前回の冒頭で紹介したように「もしもこの世にフォックスコンが存在しなければ、私たちはiPhoneも、iPadも、iPodも、プレイステーションも、ノートPCも、薄型テレビも存在しない世界に生きなければならなかった――」と言われるほど、ありとあらゆるメーカーが、電子製品の製造をフォックスコンに生産委託するに至っている。