卒業制作で兄は仲間と短編映画を製作した。コンピュータに強い弟が技術面を担当し、兄が企画・制作をするという補完関係は、この時代に構築されたと言っていいだろう。

 卒業後、兄はテレビ番組の制作会社で働くが、長くは続かず、インドに自分探しの旅に出る。3カ月間の放浪後、何もない自分に気が付いて帰国し、セガの関連会社でゲーム・ソフトの制作に携わる。ただ、制作と言っても、文書管理からデザイン、映像制作まで手掛ける何でも屋だったという。この経験は、後の起業に大きく貢献したようだ。

1億総放送局化に向けて
ロイロエデュケーションを使う子供たち。将来は、多くの人々が動画番組を自ら発信するようになると杉山兄弟はみる。
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 ただ、その間も趣味のVJの活動は個人的に続けていた。書道家の武田双雲氏のパフォーマンスでも、VJを担当した。フランスや英国にも出かけ、セレブの集まるパーティーの演出も手掛けたという。この活動を陰で支えたのは、弟だ。

 浩二氏は、ナムコ(現バンダイナムコゲームス)などのゲーム開発会社でソフトウエア開発をしながら、VJ向けの映像編集ソフトウエアを個人で開発していた。既存の市販製品に飽き足らずに兄の要望に応える形で開発を進めた結果、このソフトウエアは独自の進化を遂げ、ロイロの製品の原型になる。社会人になり、異なる会社で働きながらも、二人の共同作業は続いていたのである。

 兄はVJでの評価が高まる中、「自分で仕事を企画した方が面白い」という思いが高まっていった。「どうせなら、人が企画した仕事よりは、自分のプロジェクトで死にたいという気持ちが強くなった」と竜太郎氏は話す。

 そんな時に知ったのが、情報処理推進機構(IPA)の「未踏ソフトウエア創造事業」である。弟が開発したVJ用ソフトウエアを基盤に、映像編集ソフトウエアで「1億総放送局化を実現する」というコンセプトで応募し、採択された。その助成金があるのならと弟も退職を決意。2007年に兄弟は、慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス内にあるイノベーション支援施設「イノベーションビレッジ」にロイロを設立した。その後の評価は、前回書いた通りだ。

日本人もグローバルの競争に参加しよう

 日本では、優れた技術はあっても、それを新しい事業に結び付け、グローバルな成功につなげる仕組みが不十分なように思う。自由な環境で思い切った研究開発を行い、同時にインフラ面や「法務」「経理」「財務」などのソフト面での支援を行うことにより、技術をビジネスに生かすことが求められる。

 ロイロは、そのための仕組みをうまく活用してビジネスを立ち上げた。「素人が起業しようとしても、会社の作り方が分からない。経理や従業員の福利厚生などを教えてくれる環境は大きかった」と、竜太郎氏は支援施設を評価する。もちろん、支援に甘えてばかりではいけない。だが、同様の支援は今後さらに充実させる必要があるだろう。特に、法律家や会計士などの専門家は、自分の専門分野だけに捉われず、広く技術やビジネスを支援する能力を磨いていくべきだ。

 2010年12月にロイロがあるイノベーションビレッジを、駐日米国大使のジョン・ルース氏が訪問した。同氏は、米国シリコンバレーの老舗の弁護士事務所で、多くの新しいベンチャーの立ち上げに関わって来た経験がある。シリコンバレーに負けず、日本でも素晴らしい技術者たちを支援し、技術をビジネスに育て上げるエコシステムを構築する必要がある。

 「最近の世の中を見てどう思うか」と聞くと、弟の浩二氏は、「全体に閉塞感があり、マスコミも揚げ足取りばかりしていて、国全体が空転しているように思う」と手厳しい注1)

 一方、兄の竜太郎氏は「電車の中や喫茶店で昼間から居眠りしているか、漫画ばかり読んでいる人が多い。少しでも時間があれば、パソコンでいくらでも仕事ができるのにもったいない」と指摘する。「そうした人々を見て、どうしたら社員が充実して働けるのか、常に考えている」という。

 突っ走るだけが人生ではないし、余裕のないところに素晴らしいアイデアは出現しない。しかし、居眠りだけでは何も生まれない。中国やインド、アジアの青年たちは、必死で突っ走っている。日本人ももっと競争に参加しよう。そう感じた。

 二人とのインタビューを終えて、富士山を仰ぎながら帰途に着く。久しぶりに明るい気持ちになった。

注1)インタビューは東日本大震災の前、2011年2月に行った

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