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 日本の経済発展は科学技術が支えた。これに異論を唱える人はそう多くないだろう。1964年の東京五輪を契機に新幹線や高速道路が整備され,完成したばかりの未来の乗り物に乗ることは当時の子供にとって憧れの的だった。

爆発研究所の吉田社長
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 男の子が熱中する遊びの一つに,鉱石ラジオがあった。家の雨どいなどをアンテナにして,イヤホンでかすかに聞こえる番組を聴くのがラジオ少年の楽しみだった。私もご多分に漏れず,鉱石ラジオをはじめ,アマチュア無線や真空管を使った無線機の制作という趣味にはまった一人だ。

 高校に入ると,真空管はダイオードやトランジスタの半導体に進化し,趣味は計算機の制作に変わった。大学は法学部を選んでしまったのだが,趣味が高じて,夜間に専門学校でソフトウエアを学んだ。

 爆発研究所の社長を務める吉田正典氏も,私とほぼ同じ時代を過ごしたラジオ少年の一人である。大学では爆発の研究を選んだものの,コンピュータは常に身近なものだった。富士通時代に法律という切り口からコンピュータの進化を見てきた私と異なる点は,コンピュータそのものを研究対象にしてしまったことである。

趣味が研究に,そして事業に変わるとき

 爆発とコンピュータの結び付きを想像することは,それほど難しくはないだろう。研究で実際に爆薬を爆発させて,その様子を観察できればそれに越したことはない。だが,安全上の制約もあり,やたらと大規模な爆発実験を実施するわけにはいかない。国土の狭い日本では,なおさらである。

 吉田氏によれば,自衛隊の演習場で使える爆薬の量でも,100~200kg程度なのだという。かつて,国の研究機関が行った最大の爆発実験は,北海道で実施されたもので,火薬量は3tほどだった。ちなみに,欧米では数十t規模の爆薬を使った爆発実験が行われることも珍しくないらしい。

 実験による考察が難しい環境を補完するのが,コンピュータ・シミュレーションである。爆発が起きた近くに爆薬が存在すると,爆発による衝撃波で殉爆が生じる。工場などにある火薬庫の壁をどう設計し,どの程度離して火薬を保管しておけば,大規模な爆発事故を起こさないよう安全に爆薬を扱えるか。その分析のためには,衝撃波の特性など多くのパラメータによる複雑かつ大がかりな数値計算が必須だ。

 爆発物の安全性の調査で核となるのは,衝撃波の流体計算などを実現する並列計算機や,特殊な数値計算ソフトウエアである。吉田氏は,爆発自体の理論や現象を研究すると同時に,研究を支えるツールとしてコンピュータの開発にも携わってきた。

 ただし,吉田氏の場合,「爆発の研究が先か,コンピュータの開発が先か」といえば,どうやら後者の方が先のようである。専門の爆発研究は後から付いてきた節がある。