【対談】 ―― 吉田正典 × 加藤幹之
自然現象の凄みを伝えたい
加藤氏 産総研時代は日夜,爆発の研究を手掛けていたんですか。
吉田氏 仕事としては,あまり緊急性はないと思われるかもしれませんが,爆発事故が起きると,とにかく忙しかったですね。
例えば,火薬メーカーが大きな事故を起こしたとします。すると,火薬の生産をストップしなければなりません。生産を再開するには,原因を究明して,対策を講じて,安全を担保する必要があります。ストップしたままでは,その会社だけではなく,火薬を使う他の会社も困るので迅速な解決が必須です。
ある年の夏に起きた爆発事故では,解決に12月半ばまで掛かりました。その間は,すべての土日をつぶして解決に当たりました。
時間が掛かるのは,事故の原因究明です。その事故では幸い人が亡くなることはなかったのですが,3キロ離れた建物のガラスが割れるなど通常は考えられないような規模の被害でした。火薬の種類も,そうした被害を起こすようなものではなかった。
最終的には,火薬を入れていた容器がプラスチックや木だったことが災いしたのだと結論付けました。それらが一斉に燃えたのだろうと。そのエネルギーが火薬の爆発を何倍も大きなものにしたのです。本当に悩みましたね,その事故では。
趣味は何ですか?
加藤 そういう仕事の重圧の中で,何か趣味はお持ちだったんですか。
吉田 コンピュータですね。研究でも,かなり早い時期に並列計算機を自分で作成して,使っていました。そういう意味では,趣味を仕事に生かしていたのかもしれません。計算機を組み立てて,自分でプログラミングして,数値計算させる。それは楽しかったです。
コンピュータの趣味は学生時代からです。ちょうどマイコンが出てきた頃で,Intel社の「8085」やZilog社の「Z80」などの8ビット・マイクロプロセサのキットを買ってきて,回路を組んでいました。大学院時代は,マイコンに関わった時間が長かった。
加藤 私は1977年に富士通に入社したのですが,新人研修はハード・ディスク装置のアルミ円盤を磨くことでした。人間が磨いていたんですよ,当時は。私もマイコン少年で,高校時代に日本橋に部品を買いに行った記憶があります。そういう時代ですね。
吉田 マイコンも,まだ半田付けができましたからね(笑)。