吉田 官僚体質があまり自分には合わなかった。ただ,研究所の組織が官僚的になるのは,ある程度仕方がないことでもあるんですね。研究所の管理部門の職員は公務員でしたから法律を守ることが優先事項です。だから,法律の通りにギチギチと仕事を進めるわけですね。

 もちろん,本来は法律に沿って仕事を進めながら,効率も高めなければなりません。でも,そうはなっていなかった。管理部門と一緒に何年も仕事をしていると,研究者も官僚的になりがちです。その両方を見て,あまり夢が持てませんでした。

 ただ,私にとって爆発の研究を続ける場所の選択肢は,産総研しかなかった。他の分野ならば,スピンアウトできたのかもしれませんけれども,なかなかそうもいかないのが実情でした。

 ですから,研究で自信を得られたら,50歳までには辞めようと考えていました。でも,産総研が独立行政法人化した途端に仕事が増えて,忙しくなった。それまでは,関連省庁の話だけだったのですが,案件を受託できるようになったので,さまざまな仕事が舞い込みました。

 爆発関連の研究に携わる機関は日本に数えるほどしかありません。今辞めたら迷惑を掛けるだろうという思いがありました。不遜な言い方かもしれませんが,私がいないと解決できない案件もあったので。敵前逃亡はできませんよね。それが解決したこともあって,晴れて退職したわけです。

おんぶに抱っこでは,うまくいかない

加藤幹之氏
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加藤 産総研での研究者生活で何を得ましたか。

吉田 正直なところ,産総研での研究は大きなテーマが多かったので面白い経験でしたよ。だから,「辞めてやる」という気持ちが薄れていたのも事実です。

 特に独法化後は大きな案件も増えましたし,思惑通りいくかどうか分からない研究テーマをうまく解決できて自信も持てました。産総研での研究成果は誇りです。25年間を過ごしたことに悔いはありません。

 起業した直後は,会社に営業担当者もいなくて,Webサイトで細々と宣伝していました。そんな時期に会社の事業を支えてくれたのは,産総研時代の付き合いによるところが大きかった。

加藤 25年を掛けて夢を実現したわけですが,爆発研究所は,いわゆる国の研究機関発と言われる他のベンチャー企業とは一線を画しているように見えます。産総研内部では,研究所発のベンチャー企業を作れという雰囲気だったのではないですか。

吉田 1980年代半ばに客員研究員として米国の大学で研究をしましたが,その時も自分のお金で行きました。日本から資金をもらうひも付き研究者として渡米すると,本当にお客さん扱いで何もさせてもらえないからです。

 産総研発のベンチャーも同じではないでしょうか。やはり,どこかに庇護してもらうとなかなか何もできずに終わってしまう気がします。おんぶに抱っこでは,うまくいかないと思いましたね。

(次回に続く)