【対談】―― 吉田正典 × 加藤幹之

最初から辞めようと決意していました

加藤氏 「生涯,学究の徒」という人生も,もちろん大切なことですが,吉田さんのように専門性の高い第一人者が自分の研究テーマをビジネスにつなげるという例がたくさん出てくると,日本はもっと元気になるように思います。

吉田正典(よしだ・まさたけ)氏
1981年 東京大学 工学系研究科博士課程修了。同年 通商産業省 工業技術院 化学技術研究所(現・産業技術総合研究所)入所。1985年 米ニューメキシコ州立工科大学付属 爆薬技術研究所 客員研究員。物質工学工業技術研究所 高エネルギー化学研究室 室長などを経て,2002年4月 産総研 爆発安全研究センター 副研究センター長。2006年7月産総研を退職し,同8月に爆発研究所を設立。
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吉田氏 確かに欧米では研究者による起業は珍しいことではなく,むしろ人生のかなりの部分を占めている印象ですね。その点は日本よりも文化が深いように感じます。

 日本では,大学院を出て博士号を取ったとしても金銭的にあまり利点はないし,社会的にも重きを置かれていません。専門性の高い技術や知識を身に付けた人材への尊敬の念があるかどうかという伝統の違いなのでしょう。日本は社会制度的にも成熟していない部分があります。

 私が大学に入学したのは1970年です。実は,大学生活はあまり面白くなくて,2度留年しました。当時は,いわゆる「マスプロ教育」で教授は黙々と板書をして,学生はそれをひたすら写すだけ。教授と学生の間には何もコミュニケーションがなく,ダイナミズムを感じられなかったんです。

加藤 では,なぜ爆発の研究を?

吉田 中学・高校の頃から物理や化学,数学,天文などのクラブ活動に参加していました。趣味的には科学技術に面白さを感じていたのですが,先ほど申し上げたように大学に入ったら面白くなくなったんです。

 大学3年生になるに当たって,専攻する学科を選ぶ必要に迫られました。各講座の勧誘資料で工学部反応化学科の疋田強先生の言葉が印象に残った。反応化学科は,もともと火薬の学科です。

 実は,中学・高校の化学クラブでは火薬を調合して,いたずらをしていました。事故を起こした経験もあって,爆発には親近感があったんです。中学3年の時に友達の家で畳に直径十数cmの穴を開けたこともありました。火事にはならずに済みましたが,大騒ぎになった。

加藤 どんな勧誘の言葉だったんですか。

吉田 「爆発を研究している研究者は世界的にも,非常に数が少ない。学会もフレンドリーに議論している」というような内容でした。人が少ないところにひかれましてね。他の人がやっていることは,やりたくないという天邪鬼な性格なんですよ。それ以来,産総研を辞めるまでの30年以上,爆発の研究を続けてきました。

てっきり,火がつくからだと思っていました

加藤 それだけ長い期間,同じ分野の研究を続けたということは,爆発という分野は面白いんでしょうね。研究の内容を少し具体的に教えてもらえますか。

吉田 学生時代には火薬の性質など,より本質的なことについての研究をしていました。

 例えば,衝撃起爆という分野があります。特定の爆薬に平面衝撃波を与えると,どのくらいの距離や強さで爆発に至るか。こうした条件を定量的に調べることが,安全性や科学的知見になる。もともとはマンハッタン計画で原爆が作られたときに始まった研究です。

 当時は,この分野の技術知識体系がなかった。理論ではある程度分かっていましたが,定量性が不足していたんですね。今でも大型コンピュータで計算しているくらいですから,当時はシミュレーションなどできなかった。実験で確かめるしかないわけです。

 爆発の力で生じる平面衝撃波で,物質にどんな変化が起きるか。米国やソ連などが,全ての元素について調べ上げたわけです。その中に原爆に使うウランやプルトニウムがあった。こうした実験によって,一つの学問体系ができました。

 私が研究を始めた頃は,そうした基本的な研究成果は既に公開されていて,1960年代からは論文も多く出ていました。ただ,軍事で使う高性能な爆薬については調べ尽くされていましたが,産業用途で利用する硝酸アンモニウムなどの研究は手付かずだったのです。産業用途の安価な爆薬に衝撃波を加えた時の特性は知られていなかった。それを調べるのが,学生時代のテーマでした。