半導体のオリンピックと呼ばれるISSCCという学会において,「世界で最も信頼性が高く,消費電力が少ない」新しいSSDを発表する目的で,米国サンフランシスコに来ています。ここから程近いシリコンバレーの投資家(ベンチャー・キャピタリスト)がベンチャー企業に投資する際の一つの目安として,「ベンチャー企業が成功するためには,性能・消費電力・価格などのメリットが既存のものから10倍程度は良くなければならない」ことを,私は米Stanford Universityのビジネススクールの講義で学びました。なぜ,10倍ものメリットが必要かを理解するためには,スイッチング・コストを理解する必要があります。

 製品のコストは,製品の販売数・売上高によって変動する変動費と,製品の販売数・売上高によらない固定費があります。LSIを例に挙げれば,半導体のチップの原料となるシリコン・ウエハーの購入費用は変動費です。一方,研究開発に携わる研究者の人件費は固定費になります。この固定費と変動費は明確に数字で表すことができるコストです。経理担当者ならば,固定費と変動費だけを考えていればよいのですが,新製品を開発するエンジニアにとっては,固定費や変動費と全く違う概念である,スイッチング・コストが極めて重要になります。

 スイッチング・コストとは,顧客が既存の製品から新製品に乗り換える時に負担しなければいけないコストです。例えば,私がベンチャー企業を興して,全く新しいメモリを開発したとしましょう。新メモリの顧客である携帯電話機メーカーからすると,従来のメモリから新メモリに乗り換えるためには,「竹内なんて信用できるのかな?」といった心理的なコストから,「新メモリを使うためには,メモリを制御するホストCPUを変更しなければならない」というホストCPUの開発コスト,「メモリの購入価格を引き下げるため,わが社の方針では必ず2社から購入していたが,ベンチャー企業の1社から購入してよいのだろうか」など,さまざまなスイッチング・コストが発生します。

 こうしたスイッチング・コストを定量的に求めることは非常に難しいと思います。不可能とさえ言えるかもしれません。先程の例で,新規の購入先の信用のコストに関しては,販売者が実績に乏しいベンチャー企業よりも,過去に納入実績がある大企業の方が低くなります。また,新しい販売者が大企業であっても,顧客にとってライバル企業であれば,ベンチャー企業よりもスイッチング・コストが逆に高くなる場合もあるでしょう。このように,とらえどころのないスイッチング・コストを乗り越えて顧客に新製品を販売するためには,従来に比べて10倍程度は性能・電力・価格などのメリットが必要だというのが,シリコンバレーの投資家の考えです。

 一方,10倍ものメリットを出すことは簡単ではありません。実際の新製品では,10倍ものケタ違いのメリットを出せない場合がほとんどです。その場合には,たとえ性能などを多少は犠牲にしても,スイッチング・コストを低減することが重要になります。新メモリを携帯電話機メーカーに供給する場合を例に採ると,メモリとホストCPUの間のインタフェースに関しては,新メモリでは従来のメモリと互換性を保ち,ホストCPUを変更せずに,顧客が新メモリを使えるようにすることが最もスイッチング・コストが低くなります。また,ホストCPUをどうしても変更する必要がある場合では,CPUのハードウエアを変更するのではなく,ソフトウエア(ファームウエア)の変更だけで済む方がスイッチング・コストが下がります。それは,CPUの再設計・試作・製造には半年以上の長い時間と膨大な開発費用がかかるからです。