さて,日本の強みとは何だろう。まずは敵を知れ。欧州は陸続きの長い歴史の中で階級を生み,そのアーキテクチュアが染みついている。貴族は貴族,庶民は庶民である。これを階級派と呼ぼう。そのアーキテクチュアを嫌った人々が移住して作った国が米国である。ここでは,階級に縛られず金儲けが善の文化である。アメリカンドリームと呼ばれる成り上がりが称賛される国である。そして,先進国には珍しく一般市民が銃を合法的に所持できるフロンティア,開拓の国である。米国の成り上がりモデルは日本を刺激し,現在はアジアの国々が踏襲している。これが開拓派である。基本は勝者が偉い。弱肉強食である。

 一方,極東の島国,日本人の信仰は八百万の神様と曼荼羅の仏様。閉鎖性の強い村で「和を持って貴し」を標語に相互扶助の社会を構築してきた。もっとも,通信技術や交通技術の発達が閉鎖性の境界を村から日本国まで拡大したのが20世紀。そして, 21世紀初頭にはグローバル化という流れで閉鎖性の壁自体が崩壊に至っている。つまり,壁の崩壊が壁の中で安住してきた日本に変革を迫っている。階級か? それとも開拓か?

 階級派,開拓派は近親憎悪。成り上がりを潰すか,成り上がりを称賛するかの違い,基本は階級アーキテクチュアである。米国もエリートは大学を出れば個室が与えられ,工場労働者と一桁違う給料が支給される。日本は,和を持って貴し。大学出も現場での研修がある。そして,工場視察を嫌がらない社長が称賛される。給料も欧米ほどの差はない。世界でも珍しい成り上がりの国である。いやいや,神代から続く大きく深い国である。「階級か?開拓か?」などとは次元が違う持ち味が独自性である。

 ものづくりでいえば。日本は擦り合わせである。ユーザーとベンダー,経営者と労働者。異質な者同士がハレの舞台で酒を飲んで気心を知り,ケの日常では阿吽の呼吸で物事を進めていく。そういう文化である。これが八百万神の文化である。トイレも,台所も,玄関も,人にも,動物にも,石にも,山にも神がいる。そう,すべてにはマナがある。そして,その八百万神が民を見守る文化である。その文化に慈しまれてきたものが,陶器,磁器,漆器であり,浮世絵や歌舞伎である。これを八百万神派と呼ぼう。

 もっとも,擦り合わせは個人の経験に留まり,形式知化はされてこなかった。外から見れば胡散臭い。しかし,素晴らしい製品を生み出してくる。さらに胡散臭い。モノマネと批判され,独創性が無いと断言され,戦略が無いと見下されている。

 さて本題である。階級派か,開拓派か,それとも八百万神派かの岐路に我が国は立っている。個人的には八百万神派を選択したい。しかし,守れば前者二つの択一。もっとも,西洋デビュー100年程度の我が国では鹿鳴館で着飾っても馬の骨。守りに入れば,開拓派として弱肉強食の道しかないだろう。八百万神派の道を目指すなら,攻めしかない。

 攻められてきた我が国が攻める。それは居直りである。ここは八百万神が一番と居直らなければいけない。それも,ただ居直るだけでは足りない。「擦り合わせ」を暗黙知に留めず,形式知化していく必要がある。さらに,システム化して誰でも「擦り合わせ」ができるようにしなければならない。まずは,不易流行。変わる部分と変わらない部分の区別。前者が「擦り合わせ」部分,後者が核となる部分。この「擦り合わせ」という糊代を含んだ上で部品を定義し,その部品で製品が出来るというアーキテクチュアが出発点である。その上で,どう「擦り合わせ」をしていくかという方法論も築いていかなければならない。

 もちろん,悠長に「擦り合わせ」システム論が完成するまで待っている余裕はない。日本の技術者の皆様,懐に「擦り合わせ」という言葉を刻んだ上でグローバルな展開を前提にすべての製品を企画,開発して欲しい。核を見極めるには,製品や技術を根本から見つめ直すことが出発点である。そして,核と擦り合わせ部分を含むモジュールの決定にはグローバルな視点が出発点である。二つの視点を持つのは難しい。しかし,難しいことに挑戦するのが技術者である。日本が一番。居直って欲しい。