【対談】―― 光吉俊二×加藤幹之

存在しないものは,作ればいいんです

加藤氏 光吉さんは,彫刻家として順調に歩んでいたのだと思います。なぜ,IT関連の開発者の道に転身することになったのですか。

光吉俊二(みつよし しゅんじ)氏
AGI 代表取締役社長。工学博士。1965年札幌市生まれ。多摩美術大学 美術学部彫刻学科卒業。1999年にAGIの前身となるエー・ジー・アイを設立。2000年に感情認識技術「ST」を発表。2009年から東京大学 非常勤講師を務める。
[画像のクリックで拡大表示]

光吉氏 それを説明するには,まず彫刻家になった経緯から説明する必要があります。もともと僕は,プロの格闘家になろうと思って北海道から上京したんです。

 当時は今のような総合格闘技はなくて,打撃系の格闘技といえばボクシングやキックボクシング,空手でした。そこで選んだのは,子供のころからやっていた空手です。当時,倒したかった人がいまして。ベニー・ユキーデというマーシャルアーツの達人です。年齢はだいぶ違いましたが,彼と闘って倒すことが目標でした。

 上京する時には,両親に芸術家になると説明しました。プロの格闘家になると正直に言ったら,東京で格闘修行ができませんから。たまたま絵が得意で,高校のころから展覧会で入賞していたこともあり,芸術系の大学を受験するという名目で上京したわけです。

加藤 いつから空手を?

光吉 6歳ごろからです。ただ,両親は空手を習うことに反対のようでしたけれど。母はピアニストになってほしかったらしく,音楽教室にも通わされていました。

加藤 ご両親はまじめな方だったんですね。

光吉 父は北海道大学で薬学系の研究をしていて,母は昔かたぎの専業主婦で厳しかった。ただ,私は昔から数学が得意で,そのことについて父は私のことを認めていたようです。小学校くらいから,結構難しい数学の問題に挑んでいたので。

「お前は教育者に向いている」

光吉 それで,上京して受験したら,一浪はしましたが美大に受かってしまった。それほど裕福な家ではなかったですし,美大は授業料も高かったので両親に迷惑をかけないようにバイトをしながら卒業したんです。

 卒業制作の彫刻が恩師の中井延也教授に認められて,研究生として2年間大学に残ることになりました。その間に中井教授に「お前は教育者に向いてる」と言われたんですよ。建築関連の専門学校に非常勤講師として道場破りに行ってこいと。そこで,建築の面白さに目覚めました。地面の上の空間に重力を考えながら倒れないように美しいものを作る。総合芸術として興味深かった。そこで,建築を学ぶために再び数学の勉強も始めました。

 その後,とてもお世話になった大学時代の先輩に埼玉県にあるコンクリート会社を紹介してもらいました。社長に気に入られて,会社の中にアトリエを作っていただいた。そこで出合ったのがポリマコンクリートという素材です。

 彫刻素材として興味を持ったので,会社の研究室で高分子化学を学びました。作品のために新しい高分子の組成を開発して,それを使ったポリマコンクリート・アートという世界でも初めての作品を制作したのです。

加藤 当時は,まだ彫刻家だったわけですね。

光吉 そうです。彫刻や建築のために化学や数学を学びました。転機になったのは,1994年のことです。ある日,テレビで見たCNNの番組で偶然にインターネットの存在を知りました。インターネットを使えば,世界に自分の彫刻作品を発信できるじゃないかと火が付いた。30歳になろうとしていたころです。

 すぐにMacintoshを買ってきて,TCP/IPやHTMLについて調べた。独学で自分の作品の写真を載せたホームページを作成し,米国で公開しました。日本人の芸術家では,初めての試みだったと思います。