生き残りをかけていたセットメーカーの3次元化

 1990年代の前後、日本のものづくりを牽引してきた自動車メーカー、電機メーカーといった大手企業が、製品開発において3次元CADをこぞって導入した。製品開発は、製品に直接かかわる工程としては最も源流に位置している。そこでの3次元CAD導入を足がかりに、その後のPLM(Product Lifecycle Management)への展開が実現されてきた。

 3次元CADの導入が重要なのは、単に設計開発の作業を革新できるからではなく、ものづくりの入り口の工程をコンピュータ化することであるからだ。設計情報の源泉である、最上流の工程でのコンピュータ化の基盤があって初めて、企業として高度に戦略的な業務展開が可能になる。それなしに、後工程のコンピュータ化、例えばSCM(Supply Chain Management)やERP(Enterprise Resource Planning)だけを適用しても、それは付け焼刃に過ぎず、源流の情報化にこそ3次元CAD導入の本質があるといっても過言ではない。

 前述の部品メーカーに入社する前、筆者は電機メーカー、自動車メーカーに勤務し、それぞれ3次元CAD立ち上げ業務をさまざまな取り口で担当した。電機メーカーで3次元CAD導入の検討を実施したのは1990年代の終わりごろ、ちょうど米Chrysler社が「NEON」で初の完全3次元設計開発を実行した、と報じられたころだった。

 そのころは、日本の電機メーカーの多くで、3次元CAD導入の機運が高まっていた。当時は「失われた10年」といわれる平成不況の末期に当たり、電機メーカーがそれまでの事業部制からカンパニー制に移行しつつあった、という背景がある。各事業部は、従来のなれ合い関係から脱却し、それぞれが自分の足で立って生き残れるように、抜本的な改革を迫られていた。筆者の電機メーカーでも、採算の良い事業部はAランク、あまり良くない事業部はBランク、見込みのない事業部はCランクと格付けされ、Bランクは分離されて他社と合併、Cランクは他社に売却された。筆者の事業部はBランクだった。本社採用で入社した会社から切り離され、関連会社扱いとなり勤務地も首都圏から地方に移転、新幹線通勤となった全員の危機意識は否が上にも高まった。

 以上のような理由から、このころの電機メーカーの3次元CAD導入の取り組みは、生き残りをかけて大変気合いの入った先駆的なものだったと自負する。一般的には自動車メーカーの方が、3次元CADの導入では進んでいたと見られることが多いが、自動車の3次元CADは、3次元でしか形状を定義できなかったボディ設計での利用に留まっていて、最終製品全体を3次元設計するという取り組みは、実際にはむしろ電機メーカーの方が進んでいたのではないだろうかと見ている。

(次回に続く)