「それまで興味を持っていても携わらせてもらえなかったもんで、出仕して初めてお茶の世界に接したわけです。新鮮で、すごく興味を感じました。毎年同じ行事を繰り返して、朔日(ついたち)の挨拶には『あいかわりませぬ』と言い合う。こうやって文化が続いているんだと実感しましたね」

 こうした世界に触れることで、釜を作り手としてだけではなく、使い手としての視点からも見ることができるようになったと大西はいう。そして、十六代目を襲名。父親が倒れてから5年後の1993年のことである。18歳で父に師事した大西は32歳になっていた。

 襲名後、依頼を受けた釜を作りながら「自分の思いがそこに少しずつ出ていくのが楽しかった」と大西は当時を述懐する。ただ、それに満足しているわけにはいかない。大学時代の仲間である岸野を工房に誘ったのも、「刺激し合う仲間が必要なのではないか」との思いからだったという。昔、彼と遊びに行っていたところを探し回り、やっと見つけて工房入りを口説いた。

「彼がええと思うもんと私がええと思うもんが、違うということもあります。彼の言葉が耳に痛いときも時もある。けど、彼も突き詰めて考えてからものを言ってくるから、お互いに真剣なんです。そんな、厳しい意見が出てくる方が、結局はいいものができると思うんです」

 岸野への信頼をそう語る大西のもとでは現在、3人が働いている。とりまとめるのは大西だが「私が使われているような気分」と笑う。

炉に釜を据えるために使う五徳など、釜に関連する鉄製品も大西たちは手がける。
炉に釜を据えるために使う五徳など、釜に関連する鉄製品も大西たちは手がける。

「ときには意見がぶつかる。けど、誰もが共感できる部分もある。たとえば、浄清(じょうせい)の釜にはみんな共感する。純粋にものづくりが好きだから、そこは共感できるんですね。そうでないと、お互いに受け入れられないでしょう。個性的な釜だったとしても、それが過去の名品の良さを見抜き、理解した上で作られたものか、そうでないかで、出来上がりに大分差が出てくると思います」

 大西家の二代浄清は、兄である初代浄林と共に、古田織部ら武家茶人好みの釜を作り当代随一とうたわれた名工である。地文に凝った装飾的な釜を数多く手がけ、狩野探幽から下絵の提供も受けている。その浄清の作をはじめとした名品を見て共感したり、あるいは様々に意見をたたかわせたりしながら、ものづくりに同じ気持ちで向かっていく。それが大切なのだと大西は考えているのだ。

 歴代の当主は襲名の際、歴代の作品を先代から見せてもらう習わしがある。大西も父親から「鶴ノ釜」などの作品を見せてもらっていた。その名の通り鶴の姿を模した「鶴ノ釜」は、作者である浄清の圧倒的な造形力と技術力を端的に現すものだが、そういった名作を見て、その良さを味わうことを、大西だけでなく、共に働く職人たちにも実践してもらっているのだ。