現在の大西清右衛門の工房は、4人体勢で作品を作り出している。左が大西清右衛門、その隣の岸野と後小路(うしろこうじ)は、大西が大学時代に知り合って、工房にスカウトしてきた。右端の角田は、工房に入って12年になる職人。
現在の大西清右衛門の工房は、4人体勢で作品を作り出している。左が大西清右衛門、その隣の岸野と後小路(うしろこうじ)は、大西が大学時代に知り合って、工房にスカウトしてきた。右端の角田は、工房に入って12年になる職人。

 このような「課題」を与え、この子はどういう仕事をするのか、技量はどの程度なのかを試していたのではと大西は推測する。もちろん、椅子がちゃんとできたからと言って、すぐに仕事をやらせてもらえるわけではない。焼き抜きの酸化皮膜を鎚で叩いて落とすような、単純な作業ばかりを延々とやり続けることになる。

「やっぱり10年かな。一通りの工程が理解できるまで、それくらいの時間はかかります。釜作りにはいろいろ工程があるんで。その中から、技量に応じた仕事を少しずつさせてもらえるようになるんです。けど、理解できたからといって作れるわけではない。当時、自分が作った釜を今でも残してるけど、まあ、見られへんね」

 釜作りは一通りできるようになったが、和紙に描いた下絵を鋳型に彫り込む仕事は、美大で彫刻を専攻した大西にとっても至難の技だった。

「梅竹の釜を作っていた時ですね。紙に梅竹の下絵を描いて、地文を彫刻するんやけど、これがうまくいかない。正月でね、日中は千家の初釜をお手伝いして、夜中に作業をしていたら、真冬だというのに、湿らせ続けたおかげで紙がかびて、ぼろぼろになった。それがある日、手がふっと動くようになった。その時、ああ、先祖が助けてくれたんやなと思いましたね」

 そんな経験を積み重ね、父のもとに入って10年ほど経ってから、初めて展覧会に出展した。石の上にも3年という言葉があるが、大西はその3倍以上の間、釜の前に座り続けたことになる。「私は達成するのに時間がかかる。けど、打たれ強いですよ」大西はそう言って笑う。

 展覧会に出展する前年、父親が倒れて寝たきりの生活となった。その時から大西は父に代わって千家に出仕(しゅっし)し始めた。出仕とは、釜師大西家の継承者として正式に千家の元に出入りすること。毎月1日に家元に赴き、茶を一服いただいて挨拶を交わすという習わしだが、継承者としての意志を家元に伝える場でもあり、千家に伝わる歴代の名品で茶をいただき、家元の趣向を感じとり、作り手が目を肥やす場所でもある。こうした茶の湯の世界を学びながら、大西は釜の制作を続けた。

 大西は望んでいたものの、父親は茶の湯も何も習わなくてもいいと言っていた。しかし、その親が倒れたとき、大西は水墨画や書を習い始めた。