釜の制作の他に、大西のもとには修復の品も寄せられてくる。底を継ぐ場合も、肌の色合いを直す場合もいずれも元々の姿に合わせるように修理しなければならないので「修理は大変に難しい」と大西は言う。時には、自分の持っている釜を羽落ちにしてほしい、とか、釜をかける風炉(ふろ)を欠けさせたりして風情を出す「やつれ」にしてほしい、という依頼もやってくる。その他に、鑑定の依頼もやってくる。かなりの数の釜を見て、数多くの釜の作者を特定もしてきた大西だが、「作者は特定できないが、作品としてとてもいい」という釜にしばしば出会うそうだ。

蓋と撮みにも数多くの表現方法が存在する。
蓋と撮みにも数多くの表現方法が存在する。

「だから、自分がこの世の釜をすべて分かっているなんて、とても言えない」 と大西は言う。ルーツとされる中国大陸の遺跡から発掘される釜は、まだ明らかにされておらず、今後探るべき余地を充分に残している。日本でも、古い鉄器が完全な姿のまま出土されることも数少ない。鉄は土に還る素材である上に、鋳鉄はリサイクル可能な素材ゆえに使い古されると再び溶かされるなどして新しいものへと生まれ変わっていったと考えられるからだ。室町時代に茶の湯のための釜が登場し、作品として残されるようにもなったが、それでもいつしか消えていく釜も多くあるだろう。大西のもとに来る釜は、後世まで大事にされ、打ち捨てられることを免れた幸運な釜と言えよう。その背後に控える作り手と彼らが作り出した品物がいかに膨大か、にわかには想像が付き難い。

 それでも、歴代がそうしてきたように、修理と鑑定を制作と並行してこなし、必要になれば歴代が残した資料を調べる。そこにつづられた分厚い歴史の一端を紐解き、そこから得られたアイデアをさらに自分の作品へとつなげていく。その営みを大西は淡々と続けてきた。歴代まで含めれば、大西家は営々と、何百年もの間、その作業を続けてきたということになるのだろう。

「まあ、それができるということは幸せやと思います。僕には、父親に手取り足取り教えてもらった記憶はない。けど、勉強する気になれば、その材料はいくらでもある。京都は何度も大火にあっているので、なるべく木型や記録を残そうという意識があったんでしょう。代々が、それこそ膨大な資料を残してくれてます。ありがたいことやと思います」(文中敬称略)