下絵を元に地文を描いていくことも多い。
下絵を元に地文を描いていくことも多い。

「過去の作品を復元するだけやったら、コーディネートは比較的簡単です。極端に言えば、なるべくオリジナルに近うて、自分たちがええなと思えるように表現すればいいのでね。へらだって、山の深さとか先の丸め方とか、実際にあるものを再び作るんやったら、それを再現しやすいへらを作れば済む。目標とするものが実在すれば、比較的簡単なんです。けど、以前に全く例のないものは難しいですね。今やっているこのつるっとした釜に霰を打ったらどうなるか、それをイメージすることから始めなあかんわけやし。しかも、一言に霰言うてもいっぱいあるでしょ。だからへら作りも手探りで作って、試しながらということになるんです」

 作り手や施主の違い、あるいは時代ごとの流行の違いで、様々な装飾が釜に施されてきた。その膨大な資料の中から最も合うと思われるものを選び取り、アレンジするだけでも、高い完成度を求めれば相当の時間と手間を要することになるのである。その労力を厭うことなく、これまで作り続けてきた。逆に言うと、そういった手間をかける仕事が出来るような環境を自分たちで作ってきた、とも言えるだろう。

和紙に描かれた下絵を鋳型に貼付ける。
和紙に描かれた下絵を鋳型に貼付ける。

「いいものを作るのが一番の目標なんで、他の要素を考えずに、そのものに対してベストのもの、ベストのことを選べるんです」と言う岸野と、「大切なのは試行錯誤する時間がちゃんと持てること」と言う大西の間では、デザインから実際の作業の段階まで何度も何度も、やり取りが繰り返される。

 肌打(はだうち)や霰と並ぶ代表的な装飾である地文も、まったく気の抜けない作業の連続によって出来上がっている。釜肌に文様や絵画などの意匠を描き出す地文は通常、鋳型に反転させた下絵を湿らせて貼り付け、それをへらで彫りつけて表現する。

意匠のモチーフは植物や動物、風景をはじめ、松竹梅や鶴亀といった吉祥を表すものが主となるが、時代のトレンドが敏感に反映される装飾でもあり、大和絵や漢画に加え、狩野派、琳派など一時代を画した流派の下絵も時代によって用いられた。さらに、和歌など古典文学を題材に取った下絵も数多く、施主の教養やセンスが少なからず反映されるのである。大西家では、二代浄清(じょうせい)が狩野探幽、当代の大西の父にあたる十五代浄心が東山魁夷の下絵をそれぞれ用いるなど、代々が時代を代表する絵師たちとのコラボレーションモデルを作る機会を得てきた。

 この下絵用のへらを使って粘土に「梅の花」の下絵を付ける作業を体験させていただいた。